・・・・追い詰められていた日本・・・・ ・・・・・前途は八方塞がりであった(大蔵省『日本外国貿易月表』)。その後日中戦争がその戦火を拡大し、日本が独伊との三国同盟に加わるに及んで、日本は世界の輸出市場から締め出されるだけでなく、いわゆるABCD包囲陣による対日禁輸網によって石油、屑鉄、ゴム、錫、ボーキサイト、ニッケルなどの戦略物資の入手の道を封ぜられた。日本の国論において北進論を制して南進論が台頭してきたのは、この理由による。そのなかで「武力ノ行使ヲ辞セズ」との文言が初めて語られるようになったのは、一九四一年二月ころから策定作業が始まった「対南方施策要綱」のなかにおいてである。・・・・ ・・・・日米開戦直前の米国で発行された『フォーリン・アフェアーズ』誌一九四一年十月号は「日本に選択させよ」という興味ある論文を掲載している。論者はユージン・ステイリーという評論家である。その説くところは大局を把握し、その後の事態の推移をよく予見している。 ステイリーは「率直に言って、日本はいまや追いつめられ、不具合な片足になっている。米国は、大英帝国、中国、東インドのオランダ政府、そしてシベリアのソ連政府と歩調を合わせて、その残った足をぶった切ることもできるし、また日本が最少の損害で面子を保ちながら、公平な条件で、この危なっかしい立場から引き下がるのを助けることもできる。われわれは第一案実施の用意を整えたうえで、第二案を提案すべきである。そのあとは日本が選択する番である」と言う。その第二案とは、日本軍の中国大陸、仏印からの撤退を条件に、日本に中国市場、アジア植民地市場、米国市場への進出を認め、原材料の入手を保証すべしとする提案であって、「このような日本は対独戦争における補助的な『民主主義の兵器庫』になるだろう」と結論している。 たしかにこの時期の日本が直面していた課題の困難にして、複雑であったことは、民族の歴史において前例を見ないものである。蒙古襲来と日露戦争の二つの国難を超えるはどの国難であった。 孫子は「兵は国の大事、死生の造、存亡の道、察せざる可からざるなり」と述べ、、毛沢東は「国の運命を賭ける戦略的決戦は断じて行わない」と述べたが、この時期の日本の指導者は、最終的に真珠湾攻撃への道を選択した。・・・・ (情報源:地球日本史206_1産経新聞の一部拝借) コメント:日本の悲劇は上記情勢のなか、ハルノートを最後通牒として突きつけられ、窮鼠猫を噛む思いでやむなく始まったと考える。なんたる、むごい政治の世界であることよ!。日露戦争勝利以後、イエロー人種の台頭を西洋列強は素直に歓迎し、認めたのであろうか・・・勝手な推測ながら、成り上がり者、しかも、有色人種への偏見・蔑視・差別があったように思われてならない。今日の、中国の態度にもこれらの歴史に学ぶべきものがあるように思う。)・・・いまこそ先人たちの叡智に学ぶ時ではなかろうか!!。 |