西暦 |
年齢 |
年 譜 |
1889 |
・ |
4月14日、ロンドンで生まれる |
1902 |
13 |
ウインチェスターのカレッジ・オブ・セント・メアリー校に入学 |
1907 |
18 |
セント・メアリー校を卒業。オックスフォード大学のベイリオル・カッレッジに入学 |
1911 |
22 |
ベイリオル・カレッジを卒業し、同学寮のフェロー(研究員)兼チューター(学生指導教師)となる。翌年の夏まで、ローマとアテネにあるイギリス考古学研究所研究生として、ギリシャローマ史跡を実地に検分する。 |
1912 |
23 |
ベイリオル・カレッジのチューターとして学生を指導 |
1913 |
24 |
ギリシャ古典研究の第一人者ギルバート・マレーの娘ロザリンドと結婚 |
1914 |
25 |
ツキュディデスを購読中、ギリシャ文明の挫折と西洋文明との「哲学的同時代性」を発想 |
1915 |
26 |
「国民性と戦争」を出版 |
1916 |
27 |
「オスマン帝国におけるアルメニア人の処遇」を出版 |
1918 |
28 |
大学を辞し、イギリス外務省政治情報部に勤務 |
1919 |
30 |
パリー講和会議に中東地域専門委員として出席。ロンドン大学キングス・カレッジのコライスの記念講座担当教授に就任。 |
1920 |
31 |
オスワルト・シュペングラーの「西洋の没落」を読み、比較文明論に開眼。 |
1921 |
32 |
ギリシャ・トルコ交戦地域を視察。その記事を『マンチェスター・ガーデイアン』紙に掲載。主著『歴史の研究』の全構想を得る。 |
1922 |
33 |
『ギリシャ・トルコにおける西洋問題』文明単位の最初の著作)を出版 |
1924 |
35 |
ロンドン大学コライス記念講座担当教授を辞任。『ギリシャ文明とその性格』『ギリシャの歴史思想』を出版 |
1925 |
36 |
王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)の研究部長に就任。『国際問題大観』の執筆に当る。ロンドン大学国際史研究教授に就任。『平和会議後の世界』を出版 |
1929 |
40 |
京都で開かれた第三回「太平洋問題調査会」にイギリス代表団の一員として来日。7月から翌年1月まで、ヨーロッパ、小アジア、西アジア、日本、朝鮮、中国、ソ連を旅行。 |
1930 |
41 |
『歴史の研究』の執筆開始・ |
1931 |
42 |
『中国への旅』(29年の旅行記)を出版 |
1934 |
45 |
『歴史の研究』(1〜3巻)を出版 |
1937 |
48 |
イギリス学士院会員に推薦される。 |
1939 |
50 |
『歴史の研究』(4〜6巻)を出版。王立国際問題研究所の対外調査広報室長に就任。 |
1942 |
53 |
「国際関係評議会」の招きを受け、アメリカ各地で講演。 |
1943 |
54 |
外務省調査部長に就任。 |
1946 |
57 |
パリー平和会議にイギリス代表団の一員として出席。外務省調査部長に就任。『歴史の研究』(サマヴエル縮刷版、1〜6巻)を出版。ロザリンドと離婚し、ヴエロニカ・マジョリー・ボウトラーと結婚 |
1947 |
58 |
アメリカ、カナダの各大学で連続講演 |
1948 |
59 |
『試練に立つ文明』を出版 |
1951 |
62 |
A・V・ファウラー編集の「戦争と文明」を出版 |
1953 |
64 |
メキシコへ研究旅行。『世界と西洋』を出版。 |
1954 |
65 |
『歴史の研究』(7〜10巻)を出版。 |
1955 |
66 |
王立国際問題研究所調査部長を辞任。ロンドン大学名誉教授となる。 |
1956 |
67 |
名誉勲位保持者(C・H)になる。オックスフォード大学ベイリオル・カレッジ名誉フェローとなる。『一歴史化の宗教観を出版。国際文化会館の招きで2回目の来日。二月から翌年八月まで、南米、ニュージランド、オーストラリア、インドネシア、日本、東南アジア、インド、セイロン、パキスタン、中東を研究旅行。 |
1857 |
68 |
『歴史の研究』(サマヴェル縮刷版、7〜10巻)を出版。『歴史の教訓』(日本での講演集)を出版。 |