武蔵国の一宮問題   2004,5,5 生谷 陽之助
 
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武蔵団の一宮は通説として、旧大宮市にある氷川神社とされている。武蔵は古くは秩父夫(ナチプ)・牟邪志(ムサシ)・胸刺の国造が支配していた。大化の改新後一国となり和銅6年(713年)、武蔵の字をあてた。中世では二十二郡にわたる大国であった。現在の東京都・埼玉県・京浜地区である。国府は府中市営町に置かれでいた。

氷川神社は牟邪志国であった。旧大宮にある。大宮は大きな「宮」を表している。その創建は第五代孝昭天皇3年とされ、牟邪志国造で出雲族の首長、兄多毛比命(エタケピノミコト)が本国出雲の祖神を勧請して祭祀したと伝える。祭神は須佐之男命・櫛田姫命・人己貴命とされ、現在では三紳が同じ社殿に祀られている。

 しかし、明治推新以前は須佐之男命、男体社・大国主命、簸王子社・稲田姫、女体社三社に分かれていた。元禄時代、この三社がそれぞれ首位を争う紛議があった。三社ともに一宮を主張したのであろう。公訴となり、幕府寺社奉行は三社同格同格の裁定を下している。一宮として資料的にも近世以降の古文書は「一宮」を裏付けている。室町末期の『大日本一宮記』や橘三喜の『一宮巡詣記』も武蔵国一宮とLている。また私が諸国一宮を比定した資料、『国史大辞典』・『神道大辞典』・『大日本地名辞典』などにでは、武蔵一宮は氷川神社一社としている。武蔵国こは氷川神社が多い。東京都には59社、埼玉県に164社もあるという。その総本社がこの大宮氷川紳杜で為る。
                                                                                                                                                        一宮、二宮、三宮、、、の序列は日本六十八カ国、国単位だけでなく・、郡・荘園・郷村単位にもあった。それ故、全国各地に一宮、二宮、三宮、の地名や一宮、二宮、三宮神社等の紳社名が多い。また、諸国一宮にも律令制度の崩壊により、朝廷貴族支配から封建、武士階級の台頭による、一宮の地他の変遷があった。こういった歴史的事情による‥国二っ、三っ、‥の一宮が存在する国がある。

ここで問題を提起する。これは「全国一宮巡拝会」のインターネット・ホームページに寄せられた質問が発端である。「武蔵国こ小野神社という一の宮があります。神社本庁の一の宮表にも記載があります。なぜ一宮とされないのですか?」 この小野神社は古代は多摩郁小野郷。中世は多摩郡(多西郡)。現在、東京都多摩市一宮に所在する。『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院)によれば、14世紀成立『神道集』・『吾妻鏡』の中に一宮とする記述があり、郡・荘園・郷村の一宮とせず、氷川神社とともに武蔵国一宮としている。


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祭神は天下春命(アマノシタハルノミコト〕。八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)の御子とされ、天孫降臨供奉三十二神の一神である。秩父国造等の祖神という。延喜式内小社。一宮大明神ともいわれ、天慶八年(945年)の神位は正五位上とされ、江戸時代の朱印領は十五石。戦前の社格は郷社であった。ちなみに大宮の氷川神社は、式内では官幣の明神大社。神位は元慶二年(878年)従四位上であり、江戸期の朱印領三百石。また明治元年(1868年)10月13日、明治天皇は東京遷都、早々に行幸され勅祭社とされた。旧社格は官幣大社。

 一宮成り立ちの主たる要因として三説がある。各説が唯−の正論とはいえないが、これらの諸条件が、からみあい成立したものと考えられる。

(1)伝達機関としての一宮。朝廷、神祇官や国司からの布告・通達機関としての国内各神社に対する窓口。。また神社の朝廷・国府への陳情事項等の請け負い。

(2)国司の参拝順位の第一位。律令時代の国司は管内の有力神社を巡拝し国内行政の安泰、災害防止などを祈願するため一宮、二宮、三宮・・・の順で廻ったとする序列。

(3)社格、神階、神位が高い神社としての一の宮。延喜式内でも名神大社・小社・官幣社・国幣社など幣畠元のランクがあった。この神階は奈良時代末期の頃より、神社、神々へ贈位されていた。品位・位階・勲等と三種類があった。一宮を認定する重要な要因であったと見なされている。


上記の氷川紳祉と小野神社との処遇の比較を見ても平安や江戸時代、明治から戦前に至る公的処遇は当然、武蔵国一宮は氷川神社と軍配を上げざるをえない。
私も旧諸国一宮八十七社を参拝したが、通説とされている一宮を選んだ。いわゆる一宮を一時的に名乗ったとか、されたとか政治的、地方事情による「一宮」には参拝していない。


西国・四国巡礼は、はっきりと番所が定められるいる。また、番外の別院もある。が、神社は歴史の栄枯盛衰が多く、支配者の権力争そいも激しく、その浮沈も落差が大きい。今さら平成の一宮の「論社」、紛争をするつもりはない。それはどうであれ、我々が租神とする神々を参拝し、日本今日の繁栄の根源を築かれた神々に感謝L、さらに家内安全を含めた日々の安息を素直に、神々にお願いするのは各人の自由であろう。


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 多少脱線した。さて本題の小野神社、武蔵一宮説である。古文書に鎌倉時代に小野神、一宮という記録や多摩市内に一宮という地名が残る。 小野神社の「小野」は第三十代敏達天皇春口皇子を祖とする古代豪族であり遣隋使となった小野妹子、平安時代遣唐副使や参議にもなった小野筧、その孫小野小町等が有名である。.この筧の七世高泰が武蔵国守として赴任し、その子孫が蛮族として土著した。武蔵七党といわれ横山・猪俣などの諸氏である。小野氏は小野妹子が近江国滋賀都小野郷に住み姓名としたと『姓氏録』にある。現在もこの地に武蔵小野神社の本源とも見なされる小野神社がある。

 
武蔵 一宮の初見は鎌倉初期である。一宮、二宮、三宮、、、の序列に武蔵七党的など党的武士団の影響力が強く、この頃小野神社が一宮とされたのではないかと推定する。 『中世諸国一宮制の基礎研究』jによれば、鎌倉時代の神社ランクと支持武士団を次のようにLている。 一宮小野神社(横山党・西党〉、二宮二宮神社(西党)、三宮氷川神社(野與党・足立氏〕四宮秩父神社(丹党・猪俣党)、五宮金?神社(児玉党)、大宮杉山神社(横山党)。 これら武士党人は国衛の役人としても権力をもつこともあり、律令制度では神階も高い名神大社の氷川神社を三宮にするなど、歴史の変遷による一宮問題の流れが見られる。しかし、室町、戦国時代、江戸期にかけこれまた支配者の変化により、氷川神社が浮上。一宮の地位を確保したと推察する。

 武蔵国総社(惣社)とLて東京都府中市宮町に大国魂神社がある。六所宮ともいわれ国府の所在地にある。総社はその国の有力な神々を国府へ勧請し国内の行政安泰などを祈願する神社である。いわ神様の出先機関の総合神社ともいえる。この神社の祭神は主神大国魂大神(人己貴命〉に配祀して小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神が祀られている。団塊の神々に口々の平穏を祈願するためである。 武蔵国一宮については、簡略ではあるが私なりの経緯を述べた。武蔵国以外にも「二つの一宮」が多い。その原因を大別すると、

(1)朝廷、貴族が支持Lた神社と台頭してきた武士階級の八幡宮などとの対立や並立。
(2)粗神め男神の神社とその妃神を祀る神社との対立。
(3)天孫族を含む高天原系紳社と出雲族系の神やや渡来系土着地祇神との対立、並列
(4)同名・同神であるが本宮・中宮・下宮が一宮を名乗ると様々である。武蔵一宮のケースは1・3の項目こ該当するようだ。この多摩市小野神社に対し「論社」として府中市に同名の小野神社が。旧郷社でであり主神天下春命も同じである。国府の近くにあった。一宮の旅の日的も、原点は日本の祖神を巡拝するこころの
ふるさと巡りである。が、各人、その意図は多種多様な面もあると思う。

 諸国一宮については、一般的に人々に良く知られていない。この武蔵国の一宮問題もその認識の一助として述べた。甲乙の論争のためではない。