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壱岐電灯会社設立(郷里壱岐の島に電灯を)「わが人生は闘争なり(松阪直美著)」
P−144・・・このように新しい着想をする長島【主税】村長の目に,松永安左エ門が福岡市に電車を走らせ九州各地の電力界に華々しい活躍をしている。しかもその人が隣村印通寺出身と知った長島は、これだ!壱岐のも電灯会社を作り、新しい産業を開発しようと考えて早速博多の安左エ門の所へ出かけて「壱岐にぜひ電灯会社を作って下さい」と強引に頼み込んだ。
「電灯もよいが、電灯会社を作っても電気をつける人がおるまい」「いえ、いえ、はじめは少なくとも何とか私達各村長が勧誘して、余りご迷惑はかけないようにします」安左エ門は九州各地の電力会社が、営業面でうまくゆかず、合併吸収して来ただけに、人口の少ない壱岐で電灯会社の経営は無理だと考えた。
しかし、長島村長の青年らしい熱意と郷土のため自己の財産まで投げ出してでもというファイトと誠意が安左エ門の心を引きつけた。
 安左エ門は印通寺で弟安太郎にまかせている母のことを考え、一つ親孝行に壱岐に電灯をつけて母を喜ばせよう、そして、文化の点でも立ち遅れている壱岐のため、何らかプラスになればと決心し、すぐに九州電灯唐津営業所の市川春吉を、壱岐電灯の主任技師に任命設立に乗り出した。
 電灯会社が生まれたのは大正三年(1914)一月安左エ門四十歳の時であった。この時の資本は発起人長島主税が、全島に送電するので島内十二ケ村の各村長に呼びかけて一部を分担したが、その大半は松永安左エ門が出資した。
 一月に会社は生まれたが実際に送電を開始したのは八月からで、当時の所員十二名。電灯使用戸数1203戸、その頃の壱岐の人口は38、669人であった。(以後、大変なご苦労をされておられます)。当時の苦心を「松永安左エ門の思い出」のなかで次のように語っている。P−146をご覧下さい。
松永安左エ門は偉い人かも知れないが壱岐に何にもしてないじゃないか」と言う人があるそうである。
これは空気がいつもあるのでその尊さがわからないのと同じで、私達少年の頃ランプのホヤを磨きながら大人になった者には、電気の有難さがよくわかる。離島で日本でいち早く電灯の恩恵に浴したのは安左エ門のお陰である。しかも十八年間も無配の会社を経営してゆくことが営利会社にとってどんなに困難であるかを思う時、壱岐電灯がつづけられたことは安左エ門が大株主であったからである。