捏造された石

昨年(平成十二年)暮は「旧石器発見」の捏造問題で、この日本列島が揺れた。考古学のあり方があらためて問われ、教科書会社が新発見による記述の訂正のため、大あわてにあわてふためいた。しかし一番驚いたのは考古学者たちであり、古代史家たちだったのではないか。考古学的な夢が風船玉のように大きくふくらんだあと、思わぬ針のひと突きであっさり破裂し、しぼんでしまったからである。思い返せば、あの狂気のような日本列島の改造運動が火をつけたのだった。各地で地面が掘りおこされ、そのたびに地下の埋蔵物が「発見」され、世の人びとの耳目をそばだててきた。遺物の年代やその作り手たちの身元をめぐって、学界とマスコミが肩を組んで報道合戦、宣伝活動にしのぎをけずってきた。考古学ブームが到来したのである。古代憧慣のロマンが花開くことになったのである。

こんどの捏造工作問題の真の主人公は「日石器」だった。それが約六十万年前のものと鑑定されたのである。その「旧石器」の年代は古ければ古いほど値打ちがでるものらしかった。そのことがまた世間の人びとの関心を呼び、マスコミの好奇心を刺激した。もちろんそのこと自体は、わからないわけではない。この情報化時代にはままありがちなことだからだ。行きすぎといえば行きすぎだったのだが、何しろ考古学が素人をまきこんだブームにのったのであるから、仕方がない。しかし私は、ことの本質はそんなところにはないだろうと考える。そこには、ベテランでもある素人考古学者による捏造工作といった水準では語りつくせないような、根本的な間題が伏在していたのではないか。もうすこしいえば、考古学自体の内部にひそむ生得的なウミが外部にむかって噴出した結果ではないのだろうか。

「日石器」とは、要するに人工的な「石」の器具のことだ。それが長い年月にわたって地下に埋められていた。比讐的にいえば、地下に隠されていた。その地下に埋められ隠されていたものを発見し発掘して、それをこの地上の白日の下にさらけだす。そして分析、鑑定、解釈の作業をそれに加える。それがそもそも考古学という学問の基本的な作業過程であった。むろん事柄は、何も「石」にかぎらない。「青銅器」であっても「木製品」であってもかまわない。しかしその考古学上の「古さ」を競うということになれば、地下に埋められ秘匿されているもののなかで「日石器」ははかりしれない価値をもつ。まさに「石器」のなかの王座を占めるものといっていいのだろう。こうして「石」にたいする考古学者たちの執念が、しだいに凝結し肥大化していった。


霊石の鎮座する山

以前私は、大和の平野に美しい稜線をみせる三輪山に登ったことがある。古来、その山自体がご神体として崇められてきた霊山である。麓に壮麗な社が建てられているが、それは本殿ではない。本殿は森に包まれた三輪山そのものであり、麓の社はたんなる拝殿なのである。その日、私は山麓にある末社で六根清浄のタスキをお借りし、その五百メートルほどの山に登った。

暑い日だった。汗をかきかき小一時間ほどいくと、深い木立に囲まれた地表に巨きな石が剥きだしの形で数多く祀られていた。その巨石の群集を囲いこむようにしめ縄がはりめぐらされていた。磐座(いわくら)である。三輪山の神が鎮まる霊石、といってもいいだろう。それが三輪山のご神体として崇められてきた。今日われわれは六根清浄のタスキをかけて登拝することを許されているが、かつてはもちろん何人も入ることのできない禁足の地だった。
いつ
山中に秘匿された「石」の神気を畏れ、.その結界された霊域を斎き祀ってきたからだ。宇佐八幡に参詣したときもそうだった。八幡神の出自は複雑で、種々の伝承をもつ。だがそのもっとも古い形は、神体山とされた御許山にたいする崇拝が中心だったのではないだろうか。この御許山の山頂には三コの巨石が祀られているが、しかしその聖域に立ち入ることは許されなかった。いたし方なく私は、堅く閉ぎされている門扉の前にたたずむほかはなかったのである。眼前に隠されつづけている「石」の神気がいまにも立ち昇ってくるようだったことを覚えている。かつて伊勢神宮に旅をした西行法師が内宮の前で思わず涙を流したという古事を思いだした。


何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさの涙こぼるる

西行も、地上に隠されている霊石の厳かなる気配にふれて、魂の緊張を覚えたのではないだろうか。地下に隠されている「石」と地上に隠されている「石」の違い、である。地下に隠されてきた石はすでに用途を失っている石である。道具としての石の残骸、すなわち「石器」と称されるものだ。文化的な埋蔵物、すなわち文化財である。これにたいして地表に隠されつづけてきた石は、くり返しのべたように崇拝対象としての用途を失わない「石」である。神気を帯び、ご神体のよりしろとして畏れられてきた「霊石」である。それはけっしてたんなる埋蔵物でもなければ文化財でもない。「石器」はモノであるけれども、「神体=石」はたんなるモノではないのである。

タダモノ主義の考古学

このまことに単純な対照性の事実を、考古学という学問はそれとして認めない。認めようとはしなかった。なぜなら考古学は、地下に埋蔵されてきた「石」だけに研究上の価値を認め、そのようなモノとしての「石」にだけ歴史的事実が顕在化していると考えてきたからである。それにたいして地表に隠されつづけ、崇拝の対象とされてきた「石」の世界に想像の翼をひろげることはしなかった。地上に隠され秘匿されてはいても、人びとの心をとらえて離さなかった石の厳かな神気の働きには、関心らしい関心を寄せることはなかったのである。

この「石」という存在にたいする差別の意識、そこにこそ考古学という学問の内部にひそむタダモノ主義の偏見が根ざしていた。「旧石器」発見の捏造という事件が発生することになった真の原因が、そこに横たわっていたのではないだろうか。モノとしての石器にたいする執着と執念、というワナである。モノをこえる働きを示す霊石への軽視、からくる錯誤である。モノの発見、モノについての分析、モノとモノの因果関係……、そのような考古学的思考の連鎖のなかから、今回の「旧石器」騒動、つまりはモノの発掘騒動がこほれ落ちたのではないか。

古代人の生活の現場を真に蘇らせるためには、このような考古学的思考から解放される必要があると、私は思う。地下に隠されている「石」にたいする偏執から脱け出ることである。地下に隠されている「石」とともに地上に隠されつづけてきた「石」にたいする感覚を研ぎすますということだ。地下の遺石と地上の霊石を同時にすくいあげて、古代人の歴史を再構成してみることである。古代人におけるモノの世界とココロの世界を同じ水面に浮かびあがらせることといってもいいだろう。そのようなもっとも基本的な作業が、これまでの古代史学や考古学の世界ではかならずしもおこなわれてこなかった。むしろ意識
的に、そして慎重に回避されてきたのである。

たとえば『古事記』や『日本書紀』の研究がそうだった。戦後の考古学や歴史学のやり方は、記紀神話のなかにでてくる記述のうち、考古学者に発見された遺物に対応する部分のみを歴史的事実と認定する傾きがあった。考古学的な遺物に対応しない現象については、これを「神話」的なつくり話とみなして議論の対象とはしなかった。石や青銅や鉄などのモノだけが歴史の影を宿すと考えたわけである。石や青銅や鉄に宿るタマやカミの行方に歴史の脈動をきく耳をもたなかったのだといっていい。そのような考え方が「神話」と「歴史」の分離というイデオロギーによってさらに強められていった。モノの影を宿すものだけが「歴史」の側に属するという思想が、こうして現代の日本人の常識ないしは感覚になっていった。そして気がついたとき、われわれは偽造されたモノ、による皮肉な逆襲をこうむることになっていたのである。

神道考古学の誤謬

私はこれまで日本考古学のタダモノ主義について語ってきた。それが戦後になって異常な発達をとげたということをいった。しかしながらよくよく考えてみると、それは戦後になってはじめて生じたことではなかった。問題の種子はすでに戦前にまかれていたのである。すなわちそれは、神道考古学という学問領域が成立したときまでさかのぼるのではないだろうか。

神道考古学とは、読んで字のごとく神道を考古学の立場からとらえようとする方法のことだ。神道世界の諸現象を、考古学的発掘によって実証し、その意味を明らかにしようとする学問である。地下に埋蔵されていたモノを取りだしてきて、神道信仰や神道儀礼の輪郭を浮き彫りにしようとする方法である。この「神道考古学」を提唱したのが大場磐雄氏だった。昭和十年代のことである。氏は國学院大学国史科を卒業し、大正十四年に内務省神社局考証課に入っている。昭和四年に國学院大学の講師、同二十四年に教授に昇進、多くの人材を養成した。広範な各地の調査をおこない、昭和十八年に『神道考古学論孜』を刊行している。西欧世界にキリスト教考古学が存在し、日本の仏教学界に仏教考古学の分野が先行していたのに刺激されてのことだった。神道研究を、実証を重んずる学問に近づけようとの意図に発するものだった。

この大場氏によると、神道考古学の対象となるのが「祭祀遺跡」であり「祭祀遺物」であるという。具体的にいうと縄文時代の環状列石や配石遺構、弥生時代の銅鐸や青銅製武器などの埋納地、埋墓遺構、などである。さらに磐座や磐境、神奈備山や神雛(ひもろぎ)など、また土師器(はじき)や須恵器(すえき)、銅鏡や儀鏡などの「遺物」などである。そのような場所を中心にし、そのような遺物=モノを用いておこなわれていたのが「祭祀」であり、その場所と遺物を総称して「祭祀遺跡」であるとしていた。とするならば、その「祭祀」とはいったい何か。「祭祀遺跡」においておこなわれる「祭祀」の中身はどういうものだったのか。大場氏はその問いに答えて、それが「神祭り」であったという。それが氏による「祭祀」にかんする定義のすべてであったといっていい。なぜなら氏はその「祭祀」の内容にかんしてそれ以上突っこんだ議論をしてはいないからである。環状列石や青銅器、磐座や磐境にかんするモノ的遺構の調査、記述には最大の努力を傾注しながら、それらの「祭祀」の内部にむかって注意深い考察をくりひろげることがない。神祭りにおけるカミやタマの行方について探究することをほとんどしてはいないからである。カミやタマの宗教的領域にたいするかたくなな禁欲の態度といっていいのではをいだろうか。そこには、神道考古学の研究対象はもっぱら地下に眠る遺石にあり、地表に秘匿されつづけてきた霊石の意味の追求には存在しない、といった心構えのようなものがすけてみえる。考古学の「古」は地下に埋葬された「死んだ石」のことだ、という信念である。おそらく「祭祀」の全容が.「祭祀遺跡」に限定されてしまっているのであろう。