高野山に
朝鮮    
 朝鮮陣供養碑
          勇猛島津氏の博愛精神

          
1599年6月 紀伊 撤兵の殿(しんがり)をつとめ,前年11月に朝鮮から帰国した島津義弘(65)・家久(24)父子が,高野山金剛峰寺(こんどうぶじ) 奥の院食堂(じきどう)の路傍に,いわゆる「朝鮮陣敵味方戦死者供養碑」を建立,戦没者の供養を行った。

 碑文によれば,1597年8月15日に全羅道南原(ぜんどうなんげん)表で戦死した明兵1500人と島津兵420人,同年10月1日に慶尚道泗川 (けいしようどうしせん)で戦死した明兵8万余人,たびたびの戦闘で討ち死にした味方兵士3000余人,さらに陸海で病死・横死(おうし)した数知れない者の菩提のためだという。

 島津氏は,勇猛の反面,博愛の精神に富んでいた。これまで,1526年・38年・68年・78年の九州における戦いのあとににも,六地蔵や頸塚(くびずか)を建て,法会(ほうえ)を行って敵味方の戦没者の霊をなぐさめてきた。

 現在,石碑の下部4隅が削られているのは,のち,この石碑を削りとって服用すれば諸病が治るとの話が広まったためという。