地球日本史213_3
大きかった日露の”勝利の代償”
日米開戦やむなし

 
二十世紀の前半まで公然たる人種差別があったこと、そして日本人は差別される側にいたこと、それを前提にしなければ国際政治の恐ろしさがわからない。 米国は「マニフェスト・デステイニー」 (神から与えられた使命)を合言葉に西進してハワイをのみこみ、フィリピンを領有した(一八九八年)。未開の有色人種をキリスト教で教化するのが天命だというのだ。そのフィリピン沖を北上したバルチック艦隊を対馬沖に沈めて、日本が日露戦争に勝利した。史上はじめて有色人種が白人の大帝国を打ち破ったのである。

フィリピンを領有した米国と台湾を領有した日本はバシー海峡をはさんで隣国になった。米国としてはその隣国が旧宗主国英国と攻守同盟を結んでいること自体が気にいらない。 ドイツ皇帝カイゼル・ウイルヘルム二世は米国の友人につぶやく。「英国は白色人種の裏切り者だ。日本と結んだ同盟がそのなによりの証拠である」と。そして「近い将来、米国が日本と戦争をすることはほぼ間違いない」と予言する。日露戦争後に急速に高まった
「黄禍論」の火付け役がこの皇帝だった。「黄禍」の給入りの宣伝ビラをつくっ、たことで有名だ。

 日本がロシア帝国との戦争に勝ったことは、世界中の有色人種を勇気づけたが、同時に世界の白人国家に脅威を与えた。ドイツの歴史家ハインツ・ゴルビイツアーは日露戦争後に起こった欧米主要国の「黄禍論」の実態を発言者の実名を挙げて詳細に描いている(『黄禍論とは何か』)。

 国民は勝利に酔ったが、日本外交は黄禍という深いもやの中にはいったのだ。つまり外公文書には決して記録されない種類の困難に包囲されたのである。今日の日本の学者は外交史を書く場合でも「黄禍論」などまるでなかったように書く。一級史料に記されてないことをさいわいに。 「セオドア・ルーズベルトは中国人を北アメリカから排除することに手放しで賛成している。彼にいわせれば黄色人種をとり除くことは、デモクラシーというものが健全な本能を持っていることの証拠であり、デモクラシーが白色人種の国家形態として最適であることを物語っているというのである」 (『黄禍論とは何か』)後に米大統領になる人物の言である。彼と盟友関係こおるアルフレッド・マハソ(『海上権力史論』の筆者)はどうか。

「マハンが日本を友好的に見てこれを歓迎しているのは、日本がアジアのなかでただ一国、みずからのイニシアチブで国を開いたからだ。しかし彼はあくまでも白色人種と黄色人種は絶対不変的に異なるものであるという考えに固執していた。したがって彼の目には、アメリカで生活する日本人たちも、永遠に同化することのない『異分子』と映ったのであった」 (同)

 ロシア人は長い間「タタ−ルの軛(くびき)」に苦しんだ記憶があるから、日清戦争のころから「黄禍」の意識を高める。
意外なのは無政府主義者のバクーニン(一八七六年没)。彼はアジア人のことを「せめて野生の動物であってくれればまだましだ」と毒づいている。ただし「日本人は例外だ」とほめている。 「黄禍」をはじめて政治的プロパガンダに活用したのはへルマン・ブルンホーファー。「日清戦争の時代に彼は、日本が中国と韓国を抱きこんで極東に覇権を打ち立てようとしていると述べている。五十年後に成長する大東亜共栄圏をかなり正確に予想したことになる」 (同)

 このようにロシアの「黄禍論」はつねに、中国と日本が結託することへの強い警戒感というかたちをとって現れる。この事情は中国人移民を大量に受け入れてきた米国西海岸でも似ている。
日本人移民が中国人を扇動して白人に立ち向かってくるという恐怖の構図である。事実その声はポーツマス条約調印(一九〇五年)直後からカリフォルニア州で高まる。同州議会がさっそく日本人労働者の入国制限を決議し、数年にして日本人の土地所有を禁止するに至る。 日露戦争の”勝利の代償”はあまりにも大きかった。(拓殖大学日本文化研究所 所長  井尻千男)