一面から続く
平成17年(2005年)8月6日産経新聞
歴史の自縛 ・・戦後60年・・

「戦後」終わらせるとき

 
昭和四十七年九月、首相の田中角栄が訪中し、日中共同声明に著名した。  「過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」 このとき活躍したのが高島益郎だ。田中訪中に同行し、外務省条約局長として日中共同声明作成の実務に当たった。中国側は交渉で、「台湾は中国の不可分の一部であること」を声明に盛り込むよう強く要求した。 だが、高島はこの要求を突っぱねた。共同声明では、「中国政府は台湾が中国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明し」、日本は、「中国政府の立場を十分理解し、尊重する」との意向を示すにとどめるよう田中を説き伏せた。 国益のため頑強に法律論を展開する高島を、中国首相の周恩釆は「法匪」と非難した。だが、後に「高島のような立派な部下を私も持ちたい」と言わしめている。 「外務省に高島益郎のような国士が最近、いなくなってきた。外務事務次官も首相官邸の方ばかりみて、空気ひとつでどうにでも変わるようになってきた」 元外交官で評論家の日本国際フォーラム理事長、伊藤憲一はいう。 伊藤は、「高島という外交官がいたから最低限、抑えるところは抑えた。だが、もし、彼がいなかったら(中国におもねった)おかしな文章が入りかねない日中交渉だった」と語る。
 
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 衆院本会議場から自民党幹事長代理の安倍普三、元経産相の平沼剋夫らが次々と退場した。 今月二日、共産党を除く自民、公明、民主、社民四党の賛成多数で採択された「戦後六十年決議」の採決直前だった。村山富市政権下の十年前、大量の欠席者が出た末に採択された「戦後五十年決議」。今回の決議では、十年前の決議に盛り込まれた日本の「侵略的行為」や「植民地支配」といった文言こそなかったものの、民主党元代表、菅直人らの主張をいれて「十年前の戦後五十年決議を想起し」という文言が入った。 積極的に動いたのは、議長の河野洋平だった。河野は「会期内に広島、長崎の原爆の日を迎えるので、衆院として平和への決意を示したい」と意気込んだ。だが、中国の態度は厳しかった。外務報道官の孔泉は決議をこう切り捨てた。 「歴史問題を逆戻りさせる行為に未来はない。日本は軍国主義による侵略の歴史を深刻に反省し、歴史問題を妥当に処理すべきだ」
  
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 ここまでこじれた中国との関係を今後、どう再構築すべきか。 「戦後和解」(中公新書)を著した山梨学院大学法学部助教授の小菅信子は、日本と中国の地理的近さによる近親憎悪の感情ゆえに「英国が抱えるアイルランド問題と同様に戦後和解は難しい」とみる。 弁解の余地のないユダヤ人に対する組織的なホロコースト(虐殺)を行って戦勝国の「正義」を受け入れざるを得なかったドイツ。それに比べ、日本では、米国による原爆投下や大空襲で非戦闘員を大量に殺害されたこともあり、「加害と被害の線引きとバランスが不明確になり、日中間の戦後和解を難しくさせている」と分析する。 それでも、戦後長く日英間のわだかまりとなった英軍人捕虜問題が、平成十年、首相の橋本龍太郎が英政府の非公式のアドバイスを受け、大衆紙に謝罪のメッセージを送ったことがきっかけで、融和に 向かったことがヒントになるという。 「首相には中国だけでなく世界にメッセージを発信する老樹さを身に付けてほしい」と注文する。一方、中西は根本的な問題の解決が先決だと言う。 「いい加減に謝罪外交をやめ、日本人を罪の意識で縛り続ける
憲法を変えることから始めなければならない」 ジャーナリストの櫻井よしこは「この十年ぐらいで、新しい歴史の事実、国民の意識を覚醒するためのさまざまな事実関係が次々と明らかになつてきた」としたうえで、こつ語った。 「私はこのごろ希望を持っています。まもなく私たちの手で『戦後を終わらせる』ことができつでしょう」(敬称略)  =おわり
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この企画は佐々木類、阿比留瑠比、加納宏季、安藤慶太、乾正人が担当しました。




歴史認識めぐる発言 5閣僚罷免、辞任

昭和六十一年、藤尾正行文相が月刊誌のインタビューで「日韓併合については韓国側にも責任がある」と発言し、中曽根康弘首相に罷免されて以来、これまでに五人の閣僚が歴史認識をめぐる発言で罷免、辞任に追い込まれた。いずれも中国、韓国からの抗議を受け、当時の首相が政治決断を下した。発言の多くはさきの戦争が「侵略戦争」だったか、韓国併合に正当性があったかどうかについて、自身の歴史認識を表明したものだった。閣僚辞任が最も多いのが、村山富市内閣(平成六年六月から八年一月)で、三人の発言が間題視され、桜井新環境庁長官、江藤隆美総務庁長官が辞任に追い込まれた。江藤氏は、七年十月の参院本会議で村山首相が明治四十三年の日韓併合条約について「法的に有効に締結された」と答弁したのを踏まえ、オフレコで記者団に「植民地時代に日本は韓国に悪いこともしたが、良いこともした」と語った内容が日本のメディアを通じて韓国側に伝わった。村山首相は、大阪で開催した七年十一月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)への波及を恐れて政治決断を迫られた。江藤氏を更迭した翌日の十一月十四日、韓国の金泳三大統領に、日韓併合条約について「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約」との認識を表明し、「当初から無効」とする韓国側に大幅に歩み寄った。前日の十三日、金大統領は中国の江沢民国家主席と会談した際、日本の歴史認識について、「
ポルジャンモリ(でたらめ根性)」を直してやる」と放言していた。