君が代          白洲正子著「随筆集"夕顔"ページ43君が代」
 
ベルリン・フィルがベートーヴェンを演奏した時である。突如として、五体をゆるがすような荘重な音楽がひびいて来た。それが「君が代」とわかるのに長くはかからなかったが、たぶん皇太子かどなたかが来ていられたのだろう、「起立」なんて声がかからなくても、とても座ってはいられぬような厳粛な雰囲気であった。

 
「これこそ君が代だ」と私はその時はじめて知った。そこらでときたま聞くような、あんな気のぬけた曲とは雲泥の差がある。おおかたそれは演奏者たちの心構えによるもので、どこの国の国歌でも、「国歌」とはかくあるべきものという理解が行き渡っているからに違いない。「君が代」って、あのお相撲の千秋楽で歌うアレか、と若者の中にはいう人もあるそうだが、戦後はとかく「日の丸」とか「君が代」とかいうと、後めたい気持が先に立って、遠慮がちになり、見たり聴いたりする機会が少くなったせいもあろう。

 それにしても、よく敗戦の時に残ったものだ。一時はお能の「羽衣」の「君が代は天の羽衣稀に来て」の歌詞さえいけないと槍玉に上った程だったが、変なマーチか何かに変えられていたら目も当てられない。その中を何とか切りぬけて生きのびたのは、「君が代」に代わる名曲がなかったためだろう。

 「君が代」の歌は古く、平安時代の『古今集』賀歌の部に、題知らず、読人知らず、として掲げてある。初句が「我君は」となっているのもあるが、それは必ずしも天皇を指すわけではなく、相手の長寿を祈るめでたい歌で、「羽衣」の例を見てもわかるように、これ
本歌にした替歌は無数にある。はじめから読人知らずであったことも広く民衆の中に流布されていたことを示しており『古今集』以前にできた歌だったにちがいない。

 室町・桃山期を経て、江戸時代になるといよいよ盛んになり、能狂言はいうに及ばず、清元・浄瑠璃、狂歌、俳諧、門付の瞽女(ごぜ)唄に至るまで津々浦々に行き渡った。「君が代」は祝福の歌であり、これほど民衆的な歌謡はなかったのである。


 先日、長年外国で生活していた人が帰国して、はからずも鈴鹿サーキットで「君が代」を聴いたが、みな談笑していて立つ人はひとりもなかったと驚いていた。

 もっと驚いたのは外国人のジャーナリストたちで、日本人は自分の国の国歌を知らないのかと呆然としたという。すべて戦後の教育のなすところであるが、それがどんなに恥しいことか、誰も指摘しない。短絡的に右翼か国粋主義者に片づけられてしまうからだが、国際的、国際的と掛声ばかりで、自分の国歌を尊重しないようなやからは、いつまで経っても一流の国際人として認められることはないだろう。