体と魂が体得する古代の息吹き「一の宮巡拝」のすすめ


全国−の宮巡拝会世話人代表 入 江 孝一郎
       (社団法人日本移動教室協会理事長)

 日本はダメになる
古い話こなるが、昭和18年(1943)の秋、誰もが戦局不利を何となく肌で感じられるようになったある日、「日本はこんなことをしているとダメになります」と仲小路彰先生は強い言葉で批判されたことを今も強く印象に残っている。それから51年の歳月が過ぎたが、その言葉の内容は今も変っていないばかりか毎日起きる事件をみると、ダメどころか日本は消えようとしている。

 人間は教育で向上するのか
誰しもが憂国の気持があるが、どうにもならないもどかしさを感じているのは事実である。日教組の教育が悪い、また教育勅語をなくしたからと、意見はさまざまである。本当に教育を人が変えることができるのか、学校教育の結果である現状をみて疑わしい。 戦後、次代を担う人々の教育が大切と新しい教科の社会科に取組み「移動教室」という言葉を定着させた。社会科は、アメリカ占領軍が押し付けた教科で、アメリカ東部大西洋岸パージニア州で行っていた教科で、当時パージニアプランと呼んでいた。敗戦国日本は歴史・地理・修身を合科した社会教科を現場学習と位置づけ、日本復興の教科にすべく復員してきた教師たちは努力して花形教科に育てたのである。その現場学習を具体的にすすめたのが日本移動教室協会である。

 
児童・生徒が自分で体得し、自分で考え、自分で調べ、学ぶことを大事にした。教師も同じ目線上で学ぼうと「国土探究」を提唱し、巡検と称して機会あるごとに旅をした。旅の中に古い神社、ことに−の宮には昇殿参拝をした。当時は敗戦の後遺症で神社参拝は敬遠されていたが社会科の見学調査として参拝をした。参拝をするうち、何んとなく気持が爽やかになるのを誰しもが感じ、反抗より次に訪ずれる−の宮にすすんで参拝するようになった。見学の資料としたものをまとめた『一宮巡拝の旅』を刊行した。 理屈ではなく、体験・体得を通して学ぶこと、その資料を揃えることが「移動教室」の旅のやり方と、全国的に資料整備としている。しかし、教育は社会や時代の要請によって左右される。そのために戦後、教育過程が何回も改訂されてきた。その結果、「学校は死んだ」とまで批評され、受験勉強は学習塾の風下におかれている。教育は高教育になっても人間は育たないことが解ってきた。教育は均−に伝達し、指示される人間を養成するには適している。技術指導など目的をもって教育するには適しているが、自ら考える創造力は自分自身がつくるより方法がない。

諸国−の宮巡拝は増える
 自然発生的に諸国−の宮巡拝の数が増えてきた。−の宮巡拝を志して感じることは、最初は家内健康、商売繁昌を神様にお願いしていたが、巡拝を重ねるうち、無事に御朱印をいただけたとか、神社の閉門時間に間に合ったとか、ささやかな喜びで最高の満足をし神様に感謝の気持が湧いてくる。これは巡拝した人でないと解らない気持である。そして『全国−の宮御朱印帳』に御神印が増えるにしたがって「気」が満たされ、元気になり、御朱印帳が宝物になってくる。それは神様におねだりするのではなく、神様に感謝の気持が自然と湧くからである。それは神域に身を置くことによって古代の創建以来の空気と水、樹木の風が直接のバイブレーションとして神様の「気」が伝わり、その感動が自ずから感謝の気となる。

 自分をなくすこと、自我を没却することが、神様に理屈なく感謝する気持になり、神様の気を受けることができる。要は自分を無くすこと、無にすることであり、仏教も無我の境地を得ようと修行しているが、何も難しいことでなく、諸国−の宮巡拝の巡拝を重ねているうちに、この境地に自然となれ、知らずのうちに立派になれる。こんな素晴らしいことはないことに気がつく。−の宮巡拝者が集まると、はじめてお会した人でも心が溶けて気持よくお話しすることができる。

 「日本はこんなことをしている」とダメになると、最初に訴えたが、これから脱するには、一人一人の日本人が立派になることで、やがて日本は立派な国になる。国が立派になることは、そこに住む人が立派になることである。迂遠(うえん)のようであるが、これが最も早い近道である。何も難しいことではない。諸国−の宮巡拝を志して生涯のうちに目的、願いを達することである。

 具体的には、自分の『全国−の宮御朱印帳』を求めて、−の営巡拝をすることを誓うのである。あとは諸国−の宮のあるところへ機会をつくり参拝すればいい。そして生涯のうちに−の宮巡拝を完拝するばいいのである。暇がないとか、お金がないとか、出来ない理由をあげれば数々あるが、そう思えば、その機会はいくらでもあるし、お金も不思議とできる。それは自分自身が決めることである。御朱印の数が増えると『全国−の宮御朱印帳』は、その人にとって宝物であり、お守である。自ずと神棚も欲しくなって、神棚に祀る気持になってくる。そのようになったとき、自分で気が付かないが立派になっている。四国八十八ケ所遍路の最後の高野山奥の院に参っているお遍路さんに「ご苦労さまでした」と手を合わせる気になる光景と共通するものがある。

 
日本の国は六十八ケ国
 日本の国は、古代より六十八ケ国の国々によって開け、平安時代初期に決まった。これらの国々を開いた祖先神を祀ったのが−の宮である。その地の一番清浄な地に創建以来祀られ、今日に継承されてきたのである。六十八ケ国の国々によって日本国は構成された世界で最初の合衆国であると考えればよい。日本列島に中央に政権ができると、それぞれの国々を開き治めていた権力者をたてて国造主(くにのみやつこ)として任せ、やがて中央の力が強くなると国司が派遣されるようになった。そのころに−の宮、二の宮、三の宮と国司が任命の挨拶にまわった順と考えられる。

江戸時代まで、お国といえば諸国の国々のことである。佐久間象山が神州不滅と言ったのは有名に話であるが、象山が神州と言ったのは、「おらが国の信州」を指していたのである。日本人の血の中には旧国の意識がDNAに記録されていたのである。明治4年(1871)明治新改府は全国の藩を廃し府県に統−した制度改革を実施した。その年末には3府72県が定まったが、現在の府県の範囲が落着くのは明治17年(1884)ごろである。

 日本を考える上に、旧国を頭に置かないと本当の日本は理解できない。例えば愛知県は尾張国と三河国で−つ県を構成しているが、尾張国の織田信長と、三河国の徳川家康の二人の性格に代表されるように、それぞれ違った性格の人たちで−つの県(国)をつくり、それも急ごしらえであるから無理がある。県民性も旧国性に左右され、それを頭におかないと理解はできない。それに−の宮のご祭神にも影響される日本は奥の深い国である。

 −の宮巡拝は、旧国の−の営を意識して巡拝の旅をしているのであるから、知らず知らずのうちに日本六十八ケ国を体で感じるようになる。最近、広域行政が言われて合併がすすめられているが、旧国を意識して考えると、日本の姿に似合うものになるのではないか。

明治時代以前は、諸国という目で考えていたのである。改めて旧国を意識の中に取戻すことも大事なことであり、諸国−の宮巡拝は、それを知らず知らずに意識することになる。

 
神仏分離から共生へ

 聖徳太子の時代から江戸時代末期まで神仏習合によって日本の文化、風俗習慣がつくられてきた。神と仏を同じく礼拝する共存の伝統が培われてきた。それを一片の法令や政策によって変るものではない。日本人の内面に与えた精神的傷痕は大きなものである。そして一世紀余を過ぎた今日、進歩発展のお題目によって、かつての日本の風土や日本人が消えようとしている。美しい風景もである。

 文久3年(1863)旧3月、太政官布告による神仏分離令で神仏分離が急激に実施されると、平田派国学者の神宮らが中心となり各地で神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などを破壊・撤去運動を起こした。隠岐国は全島の仏寺を破壊して一寺も残さなかった。さらに明治維新の政治的理想であった王政復古・祭政一致を具体化するため明治元年(1868)、神仏分離令を布告した。この廃仏毀釈で明治政府は宗教に対する政治優先の姿勢を確立したが、それは平田篤胤(あつたね)らの復古神道が思想的基盤にあった。

 神社の社僧・別当は還俗し、権現・明神・菩薩などの神号は廃せられ、神社から仏像・僧像・経巻などが取り払われ、仏像などが多くの美術品が海外に流出した。明治4年(1871)1月社寺領を没収、5月神社の社格を制定97社を官国幣社とした。やっと明治8年(1875)11月に信教の自由を口達し保障された。

 明治22年(1889)2月、大日本帝国憲法によって、伝統的な神道儀礼が祭祀儀礼と宗教性を分離するという政教分離で国家神道は非宗教化したのである。近代国家の仲間に入るため、神仏習合というながい歴史を一片の発令で否定してしまい、すべてを迷信として口を封じてしまったのである。目に見えないものを否定し、これを促したのが義務教育で、寺小屋時代の自分で学ぶという姿勢から集団で教わる学校教育で均一的人間が教育されるようになった。

 明治39年(1906)8月、神社寺院仏堂合併跡地の贈与に関する件が出された。いわゆる合祀令で、これに反対した南方熊楠は、日本で初めて明確にエコロジーの立場から環境保全運動を展開したが、多くの神社が合祀された。それは人間が勝手にしたことであって、神様は元の地に留まっていられると言われている。

 昭和21年(1946)11月3日発布の日本国憲法は宗教と国家の結びつきを裁ち切り、宗教団体は国から特権を受け、政治上の権力を行使してはならず、国は宗教活動をしてはならないと規定する政教分離がなされた。

 明治・大正・昭和・平成と元号を世界で通用しているのは日本だけである。美しい国土が進歩発展の名でどんどん失われていくのを気づかずにいる。それらを誇りと思うか否かを問われている。先祖が培って今日に残してくれた神仏ともに尊ぶ、神仏習合までとはいわないが、共生までかえらないと21世紀は生きられない。

 
百万人−の宮巡拝は観光の再発見

 日本人口の1パーセントの人、−の宮百万人巡拝を目標に全国−の宮巡拝会はすすんでいる。百万人を言い出したときは夢のようと考えたが、夢ではなくなってきた。「どっこい日本は生きていた」のである。創建以来の地に諸国−の宮の神々が鎮座されている事実、そこに巡拝することは、日本六十八ケ国を巡ることになる。−の宮の神々の鎮座地と、それを取り巻く国士、その違いのあまりにも大きいことを体得する。

 進歩発展が最上だと教育されてきたことが、自然を破壊してきた誤りを−の宮巡拝をして気づくようになる。そして自然に神様に感謝の念いが湧いてくる。このような念いの人々が、日本列島を循環することは観光の再発見になる。いままで観光地は自分の所にお客が来てくれればいいと宣伝してきた。現に四国遍路は心の旅の遍路さんで賑わっている。

人が動けば金も動き循環する。
 −の宮巡拝は、古代からの息吹きが、神々の鎮座されている場に漂っている。人間の都合で合祀令により神様を遷座しているが、実は神様は動かない、動かれていないのである。その代表が諸国−の宮の存在で、神様が与えて下さった宝物というより、日本人の再生の清浄なる地である。ヒトがクリアされる場所であり、観光の再発見の地である。

 全国−の宮巡拝会に入会されている巡拝者の方は、神様の気をいただいて元気で、幸福に巡拝をされている。巡拝者を受け入れる地も、こんどは巡拝者になって巡拝をされると、巡拝の有難味がわかり感謝の気持が湧いてくる。観光の基本は、お互の心のかよいであり、巡礼である。世界の人々も聖地をめぐることから旅は出発している。