熊野詣でから巡拝・巡礼が始まった  一の宮巡拝は室町時代からか
 巡礼は聖地、霊場などをめぐり、誓願の成就、恩寵(おんちょう)への感謝・祈願、懺悔(ざんげ)、贖罪なの意味をもって、霊場との関係を密接にする目的の参拝旅行である。仏教のブッタガヤ、イスラム教のメッカ、キリス
ト教の工ルサレムは代表的な霊場として有名である。ことにイスラム巡礼は、五柱(教徒の義務)の一つとされる。 日本では平安時代中期から鎌倉時代の後半にかけて行わ 拝の原形ではないかと考えられる。廷喜七年(九〇七)、宇多法皇からはじまリ、弘安四年 (一二八一)の竜山上皇まで能野御幸は百回を超えた。

「熊野に参らむと思えども、徒歩にて参れ道還し、すぐれて山きびし、馬にて参れば苦行ならず、空よリ参らむ、羽給へ若王子」 と歌謡に詠まれるほど大変な旅行であった。

 熊野信仰は貴族からはじまつたが、室町時代にかけて熊野三山の御師(おし)・先達(せんたつ)によって武士や庶民の問に上じひろがっていった。観音信仰とともに西国三十三所霊場めぐhリ、四国八十八所巡礼が生まれた。

室町時代の 『大日本一宮記』は一の宮巡拝を意識して書かれたものではなかろうか。 廷宝三年 (一六七五)から二十三年間かけて、一の宮を巡詣した橘三喜や 「元禄地図」に一宮があることから、一の宮の巡拝は、江戸期には庶民の間に行なわれていたことが知れる。日本では順礼・遍路・廻国も巡拝・巡礼と同義に使われている。平成のいま、一の宮巡拝復活の気運がみなぎってきた。


木思石話
 森首相の 「神の国」発言をめぐり、「神の国」 についての弁解やら議論がされている▼日本国憲法の第一条から八条までは天皇の章、第一条「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」 とある▼象徴という言葉は、明治十六年刊の中江兆民の訳が初出である▼主として抽象的な事物を示すに役立つ形象または心象▼鳩が平和の、白が純潔の象徴である頬▼シンボル・表徴も同じ意味をもち、外面に現れたしるし、と 『広辞苑』 ▼明治から戦前までの 「神国」 がたたってか、天つ神、国つ神、八百万神の国であることを毛嫌いする風潮▼古代の日本人は、日々起きる現象は神様の意志と受け止めてきた▼突然「神の国」発言が出てきたのも、まさに表徴的である▼いま、あまりにも日本を失った我々は、理屈抜きで神様に感謝する行為を一の宮巡拝で示すと道は開かれる。