平成14年1月10日 木曜日 一の宮巡拝 第11号
全国−の宮巡拝会 編集発行人:入江孝一郎
知識ではなく知慧を 一の宮巡拝は素直な心で
諸国一の宮巡拝は、理屈ではなく、自分の体を運んで神域に額ずき、直接に神様を感じる行為を続けることによって、「何か」 を自分で感じるようになる。一の宮巡拝を完拝した人は、誰しもが感じ、感じさせられる不思議なものである。しかも、巡拝を重ねるにしたがって不安がなくなる。 一般用語として使われている安心は、仏教で説く「安心」の境地である。一の宮を巡拝しているうちに、知らず知らずにその境地に入れるのは、神様の力をいただいているからである。むしろ理屈があっては、神様の力を遮ることになる。古社といわれる神の社はどんなに動乱や変遷があっても、その清浄なる地は継承され、維持されてきたのが日本人の智慧であリ、無言のうちに神様から命じられていたのである。畏敬という言葉、神を畏れるということが、いま死語になっているが、とんでもないことであることに気づいていない。 このままでは「日本が危ない」と憂える人が多くなっている。しかし、どうすればいいのか、答えはない。 日本全国がそれぞれの国々から成り立っていたとき以前よhリ、その国を開いた主神が自然の中に鎮座された清浄な地が今なお継承されているのが諸国一の宮であリ、素直に神々のもとに身をおくと元気が与えられる。知らず知らずに我執がなくなる。我執をとるのは難行苦行の修行というが、一の宮巡拝はこれ以上のものである。 |
木思石話 |