★古来、日本人は「大自然」を「神」として観念してきた。

★「民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」(歴史学者・アーノルド・トインビー)

「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」
「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」と訳せる、この一文をめぐって縷々思いをめぐらさずにはおられない。(情報源:人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 P-250〜)
人々の心が平和であれば 世界に平和が来ると・・・。世界遺産メテオラ修道女

日本人は本当に無宗教なのか

よく日本人は無宗教だと言われるが、本当にそうだろうか。日本人の宗教や日本人の神様について考えるためには、まず西洋の宗教観との決定的な違いを確認する必要がある。日本人にとっての神様は、欧米人の「ゴッド(神様)」とはだいぶ違う。まず、西洋のゴッドは宇宙そのものを創ったが、日本の神様は宇宙ができた後に出現している。

西洋のゴッドは唯一の存在だが、日本の神様は「八百万の神=やおよろず」と呼ばれるように、ありとあらゆるものに宿るとされる。そして、西洋のゴッドは全知全能で人間離れしていて、決して間違いを犯さないのに対し、日日本の神様は悩んだり嫉妬したり、時には誤解することもあって、人間らしい存在である。日本と西洋で神様についてこのようなな違いがあることを知れば、なぜ同じ訳語になっているのか、不思議にさえ思うのは私だけではあるまい。

日本人は、生まれて神社にお宮参りをするかと思えば、結婚のときは教会で西洋のゴッドに誓いを立て、死んだら仏様から戒名をもらってお寺でお葬式を挙げるという不思議な習慣を持っている。しかも、誰でも知っている七福神のうち、日本の神様はたった一人しかなく、あとはすべて外国の神様である。キリスト教徒の数が少ないにも関わらず、ほとんどの日本人がクリスマズを祝うのも外国人に不思議がられる。

このようなことから、日本人は無宗教で節操がないと言われるが、これは無宗教や節操の問題ではなく、一神教か多神教かの違いによるのではないか。この違いは日本と西洋の価値観の決定的な違いの一つである。

西洋ではゴッドは唯一絶対の存在だが、日本人はありとあらゆるところに神を見いだし、たとえば、木一本一本に、また花びら一枚一枚に神が宿ると考えるのである。したがって、外国の神様を拝み、誓いを立て、親しみを覚えたとしても、それは節操がないことを意味しない。

かつて六世紀に仏教が伝わったとき、「インドの神様は御利益があるらしいから試しに拝んでみよう」というような感覚で仏教を取り入れ始め、やがて仏教中心の鎮護国家に発展した経緯がある。仏様も八百万の神の一つとしてとらえられていたことがわかる。

無宗教とは、神・精霊・霊魂などの存在を一切信じないものを指すため、一般的な日本人には当てはまらない。たとえば、神棚や仏壇を置いている家が多く、たとえそれらがなくとも、盆暮れ正月に墓参りをする人がほとんどであろう。墓参り一つとっても立派な宗教行為である。日本人ほど墓を大切にする民族も世界的には珍しいものであり、日本人は決して無宗教ではない。


日本人にとって「神」とは大自然のこど

日本人と西洋人の宗教観の決定的な違いとして、多神教と一神教の違いを述べたが、自然観の違いも歴然としている。日本人の自然観によると、大自然は人よりも上位の概念ととらえ、「人は大自然の恵みを頂いて生かされている」と考える。この考え方は日本人にとっては至極当然なもので違和感はないはずだ。

古来、日本人は大自然を「神」と観念してきた。神道において「神」とは、主に大自然のことを指す。伊勢の神宮に祀られる神が太陽の神であり、全国の神社には海の神、山の神をはじめ、大自然を象徴する神々が祀られている。なかには人を祀る神社もあるが、人も大自然の一部である。

このような日本人の自然観は、たとえばご飯粒を一粒も残さず食べる食事の作法にも見ることができる。「一粒でも食べ残したら目がつぶれる」というのが日本人の教育の基本とされてきた。また、食前に「いただきます」と言うのもしかりである。これは「あなたの命をいただきます」という意味で、人は動植物の命を摂取し続けなければ命を繋(つな)いでいくことはできないことからきている。

食事とは命の交換の儀式であって、それ自体が神事である。そして、日本人は、食物は神からの賜り物と考えてきた。収穫した最初の米を神に捧げて五穀豊穣を感謝する神嘗祭(かんなめさい)や新嘗祭(にいなめさい)という祭りは、古くから全国で行われてきた。現在でも毎年十一月二十三日には天皇陛下が御自ら、御手植えの稲を大神様に捧げる祭りが行われていて、伊勢の神宮をはじめ全国の主なお宮でも神嘗祭や新嘗祭が行われている。

米をはじめとするあらゆる食物は神からの賜り物なのである。また、大自然は人々に恵みを与えるが、今般の大震災のように、時には一度に多くの人の命を奪うことがある。日本人は太古の昔から、大自然を正しく畏(おそ)れ、正しく利用してきた。これが大自然と人類の「共生」の道なのである。

しかし、この考え方は世界では珍しいもので、西洋人たちは大自然をそのようにとらえていない。イスラム諸国、中国、韓国などの考え方とも異なる。世界の常識は「人は大自然よりも上位に位置している」というものであり、そのことは『旧約聖書』にも書かれている。日本と欧米では自然観がまったく異なるのである。

人の先祖は神である

そして、日本の伝統的価値観によると「人は神の子孫」であるとされてきた。神の子孫とはすなわち「人は大自然の子孫」であることを意味する。西洋の価値観によると、人は神が創造したものであり、人は神の子孫とは考えない。

日本では、神は先祖であるから、過去に答えがあると考える。他方、西洋では神は創造主であるから、人は努力によって神に近づこうとするため、未来に答えがあると考える。伝統を重んじる日本人と、進化を求める欧米人の違いは神と人間の関係性の違いからきているのではないだろうか。

人の先祖は大自然だと聞くと、非科学的であると思う人も多いだろう。しかし、よく検証すれば、これは極めて科学的な話である。

ヒト(ホモ・サピエンス)が誕生する前はどうだったのだろう。これには二つの考え方がある。これは、ダーウィンの進化論を肯定するか、否定するかに分かれる。進化論自体が人間の起源を説明する一つの学説に過ぎず、学界は肯定論と否定論に分かれ、学問的な決着に至っていない。それどころか、むしろ進化論に対しては根強い批判がある。

まず進化論を肯定する場合は、人の先祖は猿人であり、遡(さかのぼ)ればすべての生命の起源は、地球の海中に初めて生命が誕生したときまで遡ることになる。したがって、進化論を肯定する立場に立てば、現代人の先祖は、時代を遡るほど大自然に拡散していく。

日本人にとって大自然は神であるから、人の先祖は神であることになろう。一方、進化論を否定すると、人は猿や別の動物から進化したものではなく、最初から人だったと考えることになる。この場合、人の起源はいまだ不明で、有力説すら存在しない。

すると、神が自らの姿に似せて人を造ったとするキリスト教の創造論や、日の神の御子が高天原(たかまのはら)から地上に降り立ったという日本神話が記す天孫降臨(てんそんこうりん)が事実である可能性も生じる。

もし創造論が事実なら、人を造ったのは神であり、また、もし天孫降臨が事実なら、いよいよ人の先祖は神ということになろう。

神話は「真実」を語っている

日本人にとって神とはどのような存在なのか。それを知りたければ、『古事記』を読むとよい。先述のとおり神は先祖であるから、神様を知ることは、すなわち日本人について知ることに他ならない。

同じ時代に編纂された歴史書に『日本書紀』がある。内容的にはかぶる部分が多いが、編集方針は異なる。『日本書紀』は正史であり、対外的に用いられていたと思われる。それに対して『古事記』は国内向けに用いられたと考えられている。江戸時代の本居宣長は『古事記』は古代日本人の心情が現れた最上の書と評価している。

神話や正史の記述は「真実」と見倣(みな)されるのが世界の常識である。それは『聖書』『コーラン』などで考えるとわかりやすい。神話に書かれたことは、史実であるかどうかはさておき、すべて「真実」と見倣されている。神話が事実を語っているかどうかは、むしろどうでもよいことなのだ。

たしかに、世界の神話にはとても事実とは思えない記述も多い。たとえば『旧約聖書』の「天地創造神話」や「ノアの箱舟伝説」をはじめとし、とても事実とは思えない記述がある。また、『新約聖書』の「福音書」には、マリアが処女にして懐胎し、キリストを身籠る逸話があるが、ゾウリムシではあるまいし、人が単独で受胎するはずはない。

しかし、聖書学では『聖書』は史実を記した歴史書ではなく、当時の信仰を記した信仰書であると理解され、『聖書』の記述が史実であるかを問う論争は欧米社会には存在しない。

史実性を追究するのは神話の読み方として間違っているのであり、これは日本神話についても同様である。したがって「神武天皇は実在しない」「天孫降臨は史実ではない」などと
いう主張は「マリアには夫がいたはずだ」というのと同じだけ愚かな主張なのである。

このように一見とても史実とは思えない神話の記述にも、「真実」が含まれていることがある。たとえば、マリアの処女懐胎は、キリスト教社会にとってきわめて重要な意味をもつ。

それは第一に、神のお眼鏡に叶ったマリアの純真さ、第二に、人間の女性を処女にて懐胎させる神の神通力、そして第三に、生まれてきたイエスが神の子であるということを担
保しているのである。

つまり、もしマリアの処女懐胎が嘘なら、イエスは神の子であることが否定され、キリスト教社会の大前提が崩壊することになる。

このように、欧米社会では『聖書』に書かれたことはすべて「真実」と見倣され、そのうえに社会が成り立っている。

「真実」であることは「事実」であることよりも尊いのである。『古事記』には、日本人にとって「真実」が書かれていると考えなくてはならない。

神話を教えない民族は必ず滅びる

世界的な歴史学者として知られるアーノルド・トインビーは「十二、三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と述べた。終戦以降、民族の神話を教えなくなった日本にとって、この指摘は民族の滅亡を予言する恐ろしいものである。そして、これは占領政策の一環だった。

連合国が日本を占領した目的は一つしかない。それは、日本が二度と連合国に刃向かうことがないように「日本人を骨抜きにすること」である。連合国は財閥や軍を解体したばかりか、日本人と神道の関係を断ち切り、建国と神話の教育をやめさせ、日本人の心のなかから日本人の精神を抹消しようとしたのである。
(参考:WGIP=ヲーギルトインフォメイションプログラム)

もし占領期問中に徹底して日本が解体されたなら、一億の日本人が竹槍をもって戦っただろう。占領軍は百年がかりで日本を解体しようとしたのであり、そのことに日本人は気付かなかった。占領軍のやり方は巧妙だった。

「茹(ゆ)でガエル症候群」という言葉がある。カエルを熱湯に入れると熱くて飛び出してしまうが、カエルをぬるま湯に入れて徐々に熱すると茹であがるという。いきなり日本を解体しようとするとそれなりの反発があるが、百年がかりでゆっくりと日本を解体していけば、解体されつつあることに日本人は気付かないという作戦だったと思われる。

そして、占領軍は的確に痛いところを突いてきた。神話教育をやめさせたのは、すでにそれだけで、ゆっくり時問をかけて民族を滅亡させることになるからだ。これは、日本民族が百年殺しの刑にかけられたようなもので、危機が迫っていることに気付くことすら難しい。

現在の日本では、神話は非科学的なものとして、学ぶに値しないものであるかのように扱われている。しかし、それが近代国家の作法と思ったら大間違いである。近代合理主義の成れの果てとも思える米国ですら、ギリシャ神話や聖書を軸としたキリスト教神話の教育を徹底している。米国では聖書を知らないとジョークの意味もわからないという。

神話を丁寧に教えることは、近代国家でも常識とされている。「まっとうな日本人」といえるには、最低限、自分の国の神話くらいは知っておくべきだろう。

祭り主としての天星の祈り

では、日本人にとって、かつて現人神(あらびとがみ)とも呼ばれてきた天皇とはどのような存在なのだろう。東日本大震災の後、天皇皇后両陛下が被災地に行幸啓あそばしたご様子は全国に放送された。普段、天皇について何の感情も抱かなかったような人でも、膝を詰めて被災者と向き合う真塾な両陛下のお姿に心を打たれた人も多かったようだ。

総理をはじめ、多くの政治家たちが被災地を訪問する様子が紹介されたが、両陛下ほど真剣な眼差(まなさし)の政治家は一人もいなかった。その多くは、所詮、他人を見舞っている様子だった。しかし、両陛下は、あたかも被災した身内をお見舞いになるようなご様子であられた。

国民は天皇の赤子(せきし)といわれる。歴代の天皇は、「百姓」や「国民」と書いて、これを「大御宝=おみたから」とお読みになるという。仁徳天皇の逸話に伝えられるように、太古の昔から、天皇にとって国民は宝だったのである。被災地での両陛下のご様子が、身内を見舞うような真剣さがあったのは、それが理由であろう。

天皇にとって、国民一人ひとりは、我が子同然に大切な存在なのである。天皇は「祭り主」といわれる。また、天皇の本質は「祈ること」ともいわれる。

実際、天皇陛下は毎日国民一人ひとりの幸せを祈っていらっしゃる。我が国の歴史をひもとけば、国難に当たって国民を守るために、身を賭して祈る天皇の姿が伝えられている。

我が国は建国から二千年以上も国体を守り続けてきた。歴代天皇は祈りを通じて、日本国民の統合を実現してきた。我が国は、天皇と国民が一体となって、国難を乗り越えてきたのである。

西洋や中国では、「君」と「民」は常に対立関係にあった。我が国の歴史において「君(天皇)」と「民」が対立関係に入ったことは一度もない。日本は、常に君民が一体となって二千年の歴史を歩んできた、誠に稀有な国なのである。

民と一体となった天皇の存在は、大和心の根底に横たわっている。日本の歴史において、天皇は日本人の精神的支柱であり続けた。そして、それは今も、そして、これからも変わることはない。