第26回朝日旅行会一宮ツアー壱岐国・対馬国 2008.7.23-25 解説 生谷 陽之助

第1・2日 7月23日(水)・24(木)

1.壱岐国
 壱岐国は玄海灘の北西にあり、西海道の一国で、国のランクは下国。今は長崎県に属する。東西南北、ほぼ15kmの円形の島であり、玄武溶岩に覆われた台地状の地形である。イザナギ。イザナミの国生み、第八洲伝説では、五番目に誕生したという伊伎島にあたる。古代は由岐の島と呼び、イキ、ユキの意味は「往来」である。

 魏志倭人伝は一大国(一支)と記す。古墳が大小300余もあり、縄文・弥生時代の遺跡も多い。古くは壱岐県主が支配していたが、大化の改新後、壱岐・石田の2郡となる。国府は芦部町湯岳興触。当初は国ではなく、六十六カ国二島(壱岐・対馬)とされていた。この六十六の数字が一宮巡礼者「六十六部」略して「六部」(リクブ)の通称となる。

 平安時代関白道長の頃、沿海州の海賊刀伊(トイ)が来寇、大被害を受ける。鎌倉時代少弐氏の守護。元寇の役、蒙古襲来で二度にわたり占領された。室町時代には、松浦党(マツラトウ)の諸氏が支配。半島・大陸沿岸を荒らし回った倭寇船団の基地となる。江戸時代は平戸藩主松浦氏の城代・郡代八ケ浦、二十四ケ触(村)を支配した。廃藩置県で平戸県となり。その後、長崎県に編入。平成16年3月、市町村合併で全島、壱岐市。

○住吉神社(長崎県壱岐市芦辺町住吉東触)
祭神 底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)。
築前一宮住吉神社の末社。壱岐島筑前住吉神社領の荘園鎮守神。鯨伏郷の一宮。延喜式内名神大社、旧国幣中社(壱岐では最高の社格)。郷村の一宮の一例である。しかし、神位は高く、平安初期、貞観元年(859)従五位上(「三代実録」)。海外交通の要衝にあり、その守護神として朝廷、領主からも格別の崇敬をうけていた。軍越神事は年3回行われ神功皇后三韓征伐の故事に起因するとされ異国降伏を祈願する神秘的な祭儀である。

◎壱岐一宮天手長男神社(アマノタナガオジンジャ)
       〒811-5117 長埼県壱岐市郷ノ浦町田中触730 TEL0920−47−5748
祭神 天忍穂耳命(天照大神長男神)・天手長男命・天細女命アマノオシホホミミノミコトは須佐之男命が天照大神と天安河での誓約の時、天照大神の左の御美豆良にまく八坂瓊之五百筒御統(ヤサカニノイホツノミスマル)を乞い受け、それを噛んで吹き出した気から生まれた五男神の一。天孫瓊々杵尊の父君。

 アマノタジカラオノミコトとアマノウズメノミコトは高天原族。天岩戸前に集える神。天手力男命は怪力で岩戸の戸を開き、大神のお手を取り導くナイト役を演じられた。天孫降臨に供奉され佐那郡(三重県多気郡)にとどまられたという。このご縁で伊勢皇大神宮の相殿に祭祀。天岩戸が高天原から落ちてきたという。信州戸隠神社の神でもある。天鈿女命(アマノウズメノミコト)は岩屋の前で賑やかに踊る。「胸乳をかき出て、裳緒をほとにおし垂れき。ここに高天原動みて、八百万神共に咲ひき・・・」。(古事記)高天原の大スターであった。。天孫降臨を供奉し、のち、猿田彦命と結婚される。

由緒 神功皇后三韓征伐に際し、祈願の功績ありとして、皇后が祭祀されたと伝える。延喜式内、壱岐国二十四座うち天手長比売神社とともに、名神大社、西海道、九州二島の式内社百七社。うち五十三社壱岐・対馬に集中。新羅など外敵の侵攻を恐れ、国境の守護神として、神格を高め祈願した国防対策。また、遣唐使などの航海の安全の祈る。

神位 文徳天皇仁寿元年(851)正六位上。永徳元年(1381)まで、10回の昇進があり、530年間で正三位。中央の上賀茂神社は平安初期から正一位。神社の位階は正一位から正六位上の15階。人臣の位階は正一位から小初位まで30位階。

●江戸時代 壱岐国は肥前平戸の六万三千七百石、松浦氏の藩領地、延宝4年(1676)藩主松浦鎮信が地元出身の国学者、一宮巡暦歴の先覚者、橘三喜に壱岐の式内社の調査を命じた式内社は戦乱のために衰微し、所在さえ分からない神社が多かった。三喜は天手長男神社をこの鉢伏し山の若宮二所大明神と定め、壱岐国一宮と認定した。それを機会に松浦藩は、社殿の再建など援助を始めた。しかし、明治政府の評価は村社であった。

●壱岐には、旧国弊中社の住吉神社があり、平安時代の神位も天手長男神社より高位であった。また、国府に近い興神社は(コウノジンジャ、芦部町湯岳興触)を壱岐国一宮とする説もある。この神社は壱岐国の印籠と国庫の鍵を守護する印?神社(インヤク)である。「興」コウは府中、国府を意味する。一宮の認定は難しい。だが、江戸時代、歩いて六十八カ国を回遊した橘三喜の判定には、逆らえない。

●壱岐では田中触・東触など珍しい地名がある。江戸時代、壱岐は八ケ浦二十四ケ村九触とされていた。「触」は集落の単位である。フレ回す、つまり、町内会の回覧板のエリアにあたる。外敵の襲来もしばしばあり、緊急連絡の手段であったのであろう。

●元寇の役では蒙古襲来が二度もあり、占領されている。それ以前の外敵侵入事件として、関白道長の頃、寛仁3年(1019)刀伊の乱があった。刀伊(トイ)は朝鮮語で「後・北」を意味する。大陸沿海州の女真族である。刀伊はリマン海流に乗り高麗国の東沿岸を襲い、対馬を侵し、壱岐へ攻めてきた。「壱岐の島守藤原理忠戦死し、島民百四十八人、法師十六人、童二十九人、女五十九人殺害あり、略奪の婦女二百三十九人」という痛ましい記録がある。族軍はさらに南下。能故島を占領。博多を襲撃した。防衛の太宰府勢と激しい攻防戦が続き、筥崎八幡宮も焼失寸前であった、しかし、この時も神風?が吹き辛うじて退散させたという。ところが日本軍は刀伊族について、何の知識もなく何処から来たのか分からなかった。その後、当時は同盟国であった高麗国(北朝鮮)からの情報で、沿海州の女真族だと知ったという。まさに、昨今の国籍不明船侵犯、拉致の大事件であった。

『中世諸国一宮の基礎研究』より。
同書は芦辺町湯岳興触の天手長男神社(興神社)を一宮とする。