*印象に残った巡拝地の記録〜鎌倉北条高時腹切りやぐら

一の宮である鶴岡八幡宮を巡拝した後、北条高時腹切りやぐらに行きました。

国指定史跡 東勝寺跡(平成10年7月31日指定)です。 『東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の北条泰時が創建し元弘三年(一三三三年)、新田義貞らの鎌倉攻めの時、北条高時以下の一族郎党約800名がここにたてこもり、火をかけて最期をとげ、寺はその後直ちに再興されました。

 

            

  蒙古襲来「敵国降伏の共同祈願」

蒙古襲来時、朝廷と幕府の命で、全国の有名な神社仏閣で「敵国降伏」の祈祷を行いました。

全国の神社などでは「お告げ」があったという記録が残っています。

菅原道真公が神として大竜神化し、異国から攻めいる神と戦っているというお告げが有名になっていたようです

一の宮である、香取神宮、貫前神社、南宮大社、丹生都比売神社、新田神社 甲良大社、箱崎宮、宇佐八幡などでも祈祷が行われました。寺院では愛知県稲沢市の性海寺。奈良市の西大寺の祈祷も有名です。鎌倉という宗教センターから発信された「敵国降伏」という共同祈願の祈祷は日本中に行き渡ったのです。

元寇防塁という物理的な対策と日本軍の勇気ある戦い。神仏習合による共同祈願により神風で蒙古襲来という有史以来、最大の日本の危機を乗り切った北条氏はやがて滅亡に向かいます。

世界初、神仏習合の魁の地球平和祈願の祭典は壱岐国ルネッサンスと言えます。

 

  壱岐国ルネッサンス

 





































  歴史の中に町がある哀愁の鎌倉

考古学者の相沢忠洋先生は著書「岩宿の発見」でこう述べられています。

{この町は、歴史が存在するというよりも、歴史の中に町があるといえるのだった。中略。しかも、その人間のあゆみの跡は、あまりに哀愁が多すぎる。謡曲「鉢の木」の主人公北条時頼の話も、静御前の幼児が由比ヶ浜に沈められた話も、母、唐糸を慕う万寿姫の話も、また鎌倉の主人公、源頼朝一族の話にしてもそうだった。もしもそのなかに喜悦の物語があっても、それは原野の中に咲く、一輪の野菊ともいえる。しかし、この哀愁は天与のものではなかった。そのときどきそこに住居し、歩み続けてきた人間一人一人の人生から生まれ、育ってきたものだった。だからこそ、その人々の歩みが鎌倉という一時代と文化とを、日本の歴史の一ページとして残してきたものともいえる。しかし、私には、この人々が共通に欲し、心に求め続けてきたものは、栄耀でも、栄華でも、地位でもなく、おそらくは一家団欒ではなかっただろうかと思われ、材木座で多く発見発掘された、当時の殺傷痕が残る人骨の報告書を見ても、その若々しい骨はそれを訴えているもものと思えてならないのである。私は少年時代、この鎌倉の一角に育ったのだった。}

21世紀を安泰の世とするため、100万人巡拝運動と同時に元寇時の2000社共同祈願が地球平和への祈りとして復活すれば、国難回避の可能性が大となることでしょう。

★ルネッサンスVでは多くの共同祈願を!

壱岐国ルネッサンスが地球平和世界ルネッサンスとなることによって歴史時代はじまって以来の戦なき世の成就の可能性があります。ルネッサンスVではより多くの共同祈願を募集したいと存じます。戦いの勝利ではなく、万象の安寧といや栄えを祈念し、森羅万象の現在、過去、未来すべてを対象に地球平和祈願を祈りたいと存じます。

有史以来、初の国難「蒙古襲来」。壱岐国ルネッサンスT成就の後、中世から近世への扉を開いた織田信長中心のルネッサンスUが成就しました。

織田軍は伊勢の北畠軍を滅ぼしたあと、伊賀に侵攻しました。21世紀は、水屋神社に出現した神の光、神秘の光を奥伊勢から伊賀に再び出現させる祈りを行いたいと思います。ルネッサンスUとVは、歴史上起こった合戦の順序どおり挙行されることとなったわけです。この仕組みは正に神業といえましょうか?

5月14日現在、ルネッサンスVの共同祈願は、壱岐国一の宮天手長男神社 水屋神社 小山諏訪神社(熊本)で決定しています。

 

*印象に残った巡拝地の記録

蔵王のお釜と刈田嶺神社

天候の奇跡! 天気が悪く、お釜まで行きましたが、まったくお釜を見えず車で下山をと思いました。しかし、思い直し、引き返したところ急に雲が割れてゆき、完全にお釜を眺めることができました。

山麓の刈田郡蔵王町の刈田嶺神社の祭神は日本武尊です。

(続く)