一宮ノオト刊行を壽ぐ
福地 義之助
 
このたび日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社の社長、会長を勤められた斎藤盛之氏が一宮ノオト」を思文閣出版から上梓されることを心からお喜び申し上げたいと思う。同社は医薬の世界ではドイツに本社を置く長い伝統を有する国際的製薬会社として知られている。特に私のように呼吸器を専門とする医師にとっては、この分野の主要治療薬の供給会社として馴染み深いものがある。その季刊誌であるインゲルハイマー誌はドイツの建築や歴史などに関する行き届いた紹介記事で私も折々愛読してきた。一宮ノオト」と言う一風変わったタイトルの連載記事に格別の興味を持つようになったのは6年ほど前のことであったろうか。橋須賀収なる著者の格調ある文体と綿密な調査に基づいた探索的な内容は、美しい神社建築の写真とあいまって毎回強い印象を抱かせるものであった。最近になって同誌の編集長の関口行弘氏から橋須賀氏が実は斎藤盛之会長のペンネームであることを知らされ、一夕歓談の機会を得る幸運に恵まれた。闊達にして浩瀚な知識を秘められた温厚なお人柄はこの人にしてこの著ありと首肯したことであった。「老驥伏櫪 志在千里」という曹操の詩句をめぐっての歓談、一宮をめぐる会長業務の合間での執筆のご苦労を淡々と教えて頂いたことも記憶に新しい。最近は海外出張も多く、訪日の外国人研究者に接することも増えているが、その際最も多く受ける質問は禅と神道に関するものである。其のたびに自らの浅学を悔やむことになるが、今後は本書を熟読玩味することで確固たる自信を持って一宮に関しては正しい知識を語れるようになるであろう。真に有り難く得がたい著書であると思う。日本固有の自然観に密接に結びついた神道を一宮の由来を基点に、其のわが国における受容の過程に深く思いをはせる著者の真撃な姿勢が行間から迫ってくる感がある。真に蘇東波のいう「惟有宿昔心 依然守故処」の境地に遊ぶ著者と読者が楽しみと学びをともにする悦びをもたらす本書を広く江湖の同好の士に推奨して止まないものである。
     (日本呼吸器学会理事長・順天堂大学医学部呼吸器内科教授)
 平成14年晩秋


ノオトその1 一宮の成立
 一宮は、平安後期以来、国ごとのランキングで、ナンバーワンとされた神社である。 この定義は相当不完全である。国ごとの、と言うが、国はいくつか。つまり、一宮はいくつ有るのか。ランキングと言うが、誰が、いつ、どうやって、なんの為に、決めたのか。判つてないことがかなりある。

先ず、国の数であるが、この、あまりにもベーシックなデータが安定しない。ここではかりに、68として置いて、後日つめることにしよう。そうすると一宮は68有る。つまり、ランキングは、正確に国ごとになされ、一国のなかをわけてみたり、隣国と連合して代表をきめたりはしないのである。(別に、一宮神社と称するような、お宮もあるが、後に触れる。)

次に、誰がきめたのか。国分寺は、741年、聖武天皇が「国々に建てよ」と勅命を発せられた。しかるべき予算措置も講じなかったが、奈良末期には曲りなりに68寺がそろった。遺跡はいまほとんど判ってきたが、創建時の寺々はことごとく消滅した。(東大寺を国分寺とみるならば、それは消滅の例外である。ノオトその24参照)これに対して一宮は、何天皇が指令したのか判らない。それなのに、68社すべて現存する!こんな奇跡的対照性が、日本人の思想にはあったのである。

ランキングのものさしとしては、神社の神領、神階、参詣数、それに昔の有力社なら朝廷との通婚頻度、今なら国宝・重要文化財保有数など考えられるが、どうもそんな客観性にこだわった形跡はない。日本人は数値目標が嫌いだったらしい。そのくせ、ランキングは好きで好きでたまらない。業界別売上ランキング、芸能人所得番付、市町村の情報化度ランキング等々。神社ランキングだって、一宮のほかにもやたらある(後日紹介する)。キリスト協会にだってある。たとえばレジデントである司教座を置いた教会だけが、カシドラルと称する。カソリックのヒェラルキイが要請するランキングである。                
一宮は何が要請するランキングであろうか。国ことの首長、すなわち国司の、国内神社参拝順を定める必要からきめたという説もある。この国司というのは、どうもよほど多忙な官職であったらしく、あろうことか、国内各社をまとめた総社をきめ、そこだけ参ってすませちゃう便法も、別に作った。当時68きめられた総社の現存率56%。民衆もこの程度には国司の便法を活用したことになる。一方一宮のケースでは、むしろ無目的のランキング、いわば、ランキングヘの純粋情熱が千年の継承を支えたのではあるまいか。

学説は誰が、どうやって、決めたのか、について直接答えない。そこで、学説の片言隻句に基づき、無理矢理次のように2分する。一宮の成立をトップダウンとみるのは、樋口清之樽士、上田正昭教授ら。ボトムアップとみるのは、吉岡吾郎、佐野和史、梅田義彦ら各氏。後者の見解の弱点は、国々に洩れなく一宮が成立した事情を説明しにくいことである。私は、ここでも日本人の思想、すなわち、ランキング情熱のとなりの、もうひとつの情熱であるところの、あの、あくなきヨコナラビ精神、これで説明できると思っている。


ノオトその2 一宮がある国の数
一宮は、国ごとのランキングで、ナンバーワンとされた神社である。だから、一宮はいくつぁるか、という問いには、先に、国の数を決めておかないと、答が出てこない。 国は、時代により離合し、数が増減する。たとえば、現福島県の磐城、岩代両国は、8世紀に陸奥国に合併(国数マイナス2)したが、なんと明治元年、再び独立、同時に陸前、陸中も分立、陸奥は東北太平洋岸の大国から、一挙北端の小国になり果てた(プラス4)。どうも日本人は、よほど組織をいじるのが好きで、廃藩置県を僅か3年後にひかえ、物情騒然たる中で、こんなカケコミをやっている。だから陸前一宮が存在しても、事実存在するが、本稿の一宮は平安後期成立と考えるので、一宮がある国の数にはカウントできない。

 日本六十余州と一般に云うが、平安後期以降の国の数は66だと思われていたらしい。祇園祭にははじめ、鉾66本を立てた。平家物語は、「日本はわずかに66国、平家の知行30余国、すでに半国をこえたり」とうたい、西国守護大名山名氏は、66国のうち、11国を領して「六分一殿」(ろくぶいちどの)とよばれた。外様(とざま)領に潜入するお庭番は、「六十六部」姿に変装したが、これlは66国巡拝行者(ぎょうじゃ)の称である。

六十六部を略して六部といい、藤沢周平は『ふるさとへ廻る六部は』を書いた。それなのに『六十余州名勝図会』という浮世絵は、70枚構成で、国が68ププラス江戸、大日本である。たしかに私が数えていくと、68になってしまう。そこで皆さん、ツジッマ合せに苦労した。室町時代にあらわれた『大日本国一宮記』ではどうしたかというと吉備国が備前、備中、備後の3国に分解した時期は、もう判らない程大昔であるのに、3国を吉備1国に扱い、それなのにその後713年、備前から分立した美作(みまさか)はちゃんと1国に数えて、計66国にむりやり圧縮した。安芸、備前両国をしらん顔でとばして、計66とした一宮資料もある。

 66は、68から壱岐、対馬を除いたのかもしれない。しかし、では何故、淡路、佐渡、隠岐は除かれないのか。もちろん対馬にもちゃんと国府を置き、国司を派遣し、国分寺を建てた。藩主宗氏が江戸城内で詰める座敷は、国持大名並の待遇を受けた。日本人は、国の数を過少申告するという、世界でも珍しい思想にとらわれた民族だったのかもしれない。妙な謙遜にまどわされず、ここは68でゆこう。そうすると一宮は68だ。ただ現実はもっと複雑な数 になる。後日述べる。