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2.能登国
能登半島石川県の北部こあたる。中央部の七尾湾が動物め咽噂、「ノド」の形をしているので、ノトの語源説。アイヌ語の「ノット」は岬を意味し、ノトになったともいう。 古くは能登・羽咋の国造が支配。大化改新の時は越前国に属し、養老二年(718)羽咋・能登・鳳至・珠洲を分割、能登とした。のち、天平十三年(741)越中国こ合併、天平宝字元年(757)旧に戻り能登となる。国府、国分寺は七尾市古府、府中。平安初期より十世紀にかけ、沿海州の国、渤海との朝貢貿易があり、能登福浦港に渤海国客司院を設置。対外交易、大陸文化導入の地として繁栄していた。 中世には畠山・上杉氏の勢力下となる。江戸時代は加賀前田藩の所領。明治四年(1871)七尾県、明治五年石川県となる。

◎能登一宮気多神社(気多大杜)

            〒993−0113 羽咋市寺家町71−1 TELO76-22−0602
 古くは気太神宮、気多不思議太智菩薩とも呼ばれていた。当初、鹿島郡所口の気多本宮(能登生国玉比古神社)におられ、のち当地に遷座されたという。大国主命が出雲から因幡の「気多埼」を経て、この能登へ来られた由縁が「気多」の名の由来という。

●祭神 太己貴命(大国主命)
 古縁起によると「第八代孝元天皇の頃、この地で怪鳥や大蛇が人々を苦しめていた。この時、大己貴命が出雲から三百余末社春属の神を率いて、これらを退治。この南陽の浦に垂跡され、天下国家君民守護の神となった」とある。 一説に天つ神族天孫降臨供奉三十二神、天活玉命(アマノイククマ)とあるが、越中・越後から信濃へ至る出雲要族の進出を見ても大国主説がうなずける。
●「延貴式内」能登三十座内唯一の国幣名神大社。貞観元年(859)従一位勲一等、のち正一位。明治四年(1871)国幣中社、大正四年(1915)国幣大社。 奈良から平安時代にかけ、東北経営や新羅・渤海との対外関係があり、地理的に見ても日本海の要地、能登半島を守護する能登一宮は朝廷より、高級の神階や神領が寄せられていた。江戸時代の社領350石(加賀前田家より)
●天平二十年(748)越中の守大伴家持 国内巡察時の万乗歌(当時、能登は越中国)【気太の神宮に赴き参り海辺を行くに作る歌】之乎路(シオジ)から直(タダ)越え来れは羽咋の海 朝凪したり船
(檸)横もがも

●神仏習合 「能登国気多大神宮寺」白山信仰泰澄大師が開祖。二十余の僧坊があった。
●本殿正面三間、側面四間の両流造。拝殿・神門は江戸初期承応年間造営(加賀藩、お抱え大工山上善右衛門)国重要文化財。

●平国祭(クニムケマツリ、3月i8日一23日)大国主命の国土平定にちなむお祭りである。気多神が当初鎮座された七尾の能登生国玉神社まで道中の各神社に立ち寄り神輿が巡行される。各地で福俵・豆粉団子・ヒエ粥などをお供えする。能登部では必ずヒエ粥を供える。大国主命:の能登巡回の時、空腹のため疲れておられたが、機織(ハタオリ)の乙女がヒエ粥を奉じて、お肋けしたという伝承による。

●現在の境内地、約十二万坪。本殿背後社叢地約一万坪は国指定天然記念物。ここに奥宮かあり、三基の円墳がある。”入らずの森"で立入り禁止。椎ノ木・(
)・椿等が繁茂する原生林である。昭和五十八年五月二十二日、全国植樹祭で来られた昭和天皇が御参拝後、視察された。御題【気多の森】斧いらぬみやしろの森 めずらかに からたちぱなの 生ふるを見たり 行幸記念碑がある。

●折口信夫(オリグチシノブ、1887-1953)記念歌碑。
大正'昭和初期の国文学者、歌人、民俗学研究者。民俗学・宗教学・芸能史等の領域にわたり・日本の古典・古代の民俗生活の研究に業績を示した。祖父は奈良明日香村、飛鳥座神社の神主家。硫黄島で戦死した養子の春洋の故郷、ここ羽咋市寺家に墓がある。