フビライの国書が到着
日本侵略への予告か
幕府は無視

「元使五人塚」

1268年1月 筑前 モンゴル(蒙古)帝国第5代皇帝フビライ(54)の 命で,高麗(こうらい)の使者潘阜(はんぷ)がモンゴル・高麗両国の国書をたずさえ大宰府に到着した。

 フビライからの国書の内容は,日本に通交と親睦を求めるもので、結びにも、臣下としないことを明らかにした語句が用いられている。しかし,要求が受け入れられない場合には武力行使もやむをえないとする姿勢が示されている。 国書は,筑前国守護の手をへて閏1月8日鎌倉に到着し,幕府から朝廷に奏上される。朝廷では連日評定(ひようじよう)の結果,返書を送らないことに決め,諸社寺に異国降伏の祈祷を命じる。

 幕府も讃岐国御家人らに命じてモンゴル軍襲来にそなえさせ,3月5日には,老齢の北条政村(まさむら)(64)に代えて弱冠18歳の時宗(ときむね)を執権にたてる。 この国書は,1206年,モンゴル高原の遊牧民を統一したチンギス・ハン(太祖)以来,勢力を拡大してきた史上空前の大帝国が,ついに高麗つづき日本服属へと乗り出したこを示している。とくに1261年,モゴルは定住農耕地域の南宋に宣戦していることから,日本服属,南宋孤立化という戦略上の意図が,国書の背後に読みとれるのである。 なおモンゴルからの交渉は6回に及ぶが,幕府は基本方針を変更せず,モンゴル軍の襲来は必至となる。