蒙古軍の正体 モンゴル高原に、一人の男の子が生まれました。その名はテムジン。この子が成長して、世界を震え上がらせるようになるとは、だれが想像したでしょうか。 その名はテムジン、のちのチンギス。ハーンは、十三世紀のはじめ、モンゴル高原で狩と遊牧の生活をしていたモンゴルの部族を統一して国を建てました。かれの率いる騎兵隊は、中央アジアを征服し、西アジア・南ロシアにも侵入しました。その子孫は、中国北部・南ロシアを征服し、東ヨーロッパにも遠征軍を送りました。 その後、モンゴルは、十三世紀の後半には、高麗を従え、五代目のフビライのときに、都を今のペキン(北京)に移し、国の名を「元と」定めました。フビライは、南宋を滅ぼして中国の全土を支配し、世界史上空前の大帝国(モンゴル帝国)を築いたのです。 元の時代は、東西の貿易や文化の交流がさかんに行われました。そのため、陸路や海路を経て、西アジアやヨーロッパから、使節や宣教師、商人などが元を訪れるようになりました。日本(ジパング)を、黄金の島として、ヨーロッパに紹介したイタリア人マルコ・ポーロも、その一人です。 朝鮮半島では、十世紀のはじめに高麗が国をたて、鴨緑江にまで勢力をひろげ、はじめて朝鮮半島を統一しました。しかし、その後、高麗はたびたびモンゴルの侵略を受け、約三十年間にわたって、モンゴルの大軍にはげしい抵抗を続けましたが、1259年、ついに降伏しました。 フビライは、続いて日本もしたがえようとし、高麗に、日本遠征のための食料の調達や兵士の徴集、それに軍船を作ることを命じました。しかし、元の支配に反対する高麗の軍隊の反乱がおきるなどして、元の日本遠征はひきのばされました。 これよりさき、フビライは、高麗を通じて日本にも服属をもとめて、文永五年(1268)には、最初の元の使節が国書を持参して、通交を求めてきました。しかし、朝廷と幕府はこれを拒否し、返事を出しませんでした。その後も、たびたび使者を送ってきましたが、執権北条時宗はこれを追い返してしましました。これは当時の指導者が、断固たる決意を示したものであるという見方もありますが、一方では、いかに国際的感覚にとぼしく、外交ルートにも無知であったかという見方もできます。 とにかく、当然予想される蒙古来襲に備えて防備の準備をしなければなりません。まず、朝廷や幕府は、異国のわざわいをはらう祈祷を主な神社や寺でしました。現在から見ると非科学的ですが、当時の神々の意志は絶大なものでした。かんじんの防衛策は、「はやく蒙古襲来の防備をせよ。」との命令はでていましたが、史料では大きな動きはありません。まして、国防の最前線となる壱岐や対馬に関しては、新たな防衛強化策もないまま、時は過ぎていきました。はたして、たびたびの国書にもかかわらず、返事がこないのに怒ったフビライは、ついに日本征服を決意しました。 (情報源:壱岐の風土と歴史、中上史行著 ページ154) コメント :時の北条時宗を支える人は宋から招いた無学祖元であり、かなりの元の情報は持っていたと考えられる。それをあたかも外交音痴として批判してフビライの怒りを誘発したのは日本人に原因を求める姿は今日の原爆投下、東京大空襲も日本人に原因があるとすることに・・・なんだか似ているように思われてなりません。しからば、元の配下に下っていたならばどう歴史は展開したのか、話し合いで解決できる相手だったのか・・・。 私見ながら、ここに戦後の歴史から北条時宗が消えていたことの意味がわかるような気もします。 Iron1 |