第27回朝日旅行会 一宮ツアー越後・佐渡      (1)
               2008.5.21-22
解説 生谷陽之助
第1日.5月21日(水)
1.越後国                                                                                           ●
越後は佐渡国を含め今の新潟県こあたる。高志国が越の道ロ(越前)越の道中(越中)などに分かれ、古くは越の道尻と呼ばれていた。第十代崇神天皇時代、四道将軍の一人、大彦命が遠征したとするが、蝦夷族の勢力も強く平定に至るまでは長い歳月が必要であった。蝦夷政策上の要地であり、大化3年〈647)新潟近くに、前線基地淳足棚(ヌタリノサク)が築かれている。アメリカの西部開拓時代でいえば、アメリカ騎兵隊の砦、いわゆるフォートである。この頃は、まだ大和政権の完全な支配下ではなかった。ことが推察できる。その後、朝廷の領土として越後国が確立されたのは、奈良朝和銅5年(712)である。北陸道の一国、国のランクlは上国。                                                                                           
「廷書式」では7郡。国府は上越市直江津本町に置かれていたという。鍾倉時代は比企・佐々木・名越氏が守護。室町時代は上杉氏。戦国時代、上杉謙信が支配、信州川中島で武田信玄と争う。慶長3年(1598)豊臣秀吉が上杉景勝を会津へ転封。江戸時代、高田藩など十数藩に分立。明治の廃藩置県で新潟県と柏崎県に分かれ、のち新潟県に統一された。裏日本のほぼ中央に位置し、豪雪地帯で、我が国有数の米どころ「腰ひかり」の国である。 
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◎越後一宮居多神社(コタジンジャ)
               
〒942-0081 新潟県上越市ご番6丁目1−11 TEL:0255-43-4354
 
越後にも弥彦神社と居多神社二つの一宮がある。居多神社は国府のあった直江津の五智にある。上杉鎌信の本拠地、春日山城にも近い。親鸞上人が越後国府へ配流された国分寺跡あたりである。居多(コタ)は能登・越中一宮気多けタ)神社に通し、御祭神は大己貴命と共通し、配神のお妃も越国翠の女王奴奈川姫である。(五世紀末の稀荷山古墳出土の鉄剣金象?銘文では「居」を「け」と読む。古代、居多神社は「けた」神社と呼ぱれていたと考える。故に「気多神」は居多神と同一。『中世一宮制度の基礎的研究』)                                       

 
明治までは、直江津港に近い居多ケ浜にあったが、山崩れや海水の浸触のため現在地へ遵座された。

●祭神 主神 大己貴命(大国主命) 配神 奴奈川姫命 建御名方命(諏訪神、大国主命と奴奈川姫命の御子) 奴奈川姫は沼河比売ともいい、越後国頚城郡沼川郷の地名に由来する。『古事記』「八千矛神(大国主命の別名)の妻問い物語」に登場する。大国主が越国に出向き、「賢く美しい妻を求めて遠い越の国まで来た……」と奴奈川姫に求婚された。姫もその心をくみ取り、相聞歌で「私はなよなかな女ですから、わたしの心は、浦州にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています‥…やがてはあなたのお心のままになるでしょうから‥・…」と応答されたという。

信越国境から日本海の糸魚川市へ注ぐ姫川は、古代勾玉や管玉に用いられた「翡翠(ヒスイ)」の原産地。「万葉集」にも「ぬま川の底なる玉求め得し…・・・]」と歌われている。姫川の名はこの奴奈川姫にちなむという。越の豪族であった奴奈川姫一族との政略的な提携と財宝としてのヒスイの獲得であったという説がある。

●この両神の御子、建名方命は信濃一宮諏訪神であり、日本海から河川を遡り諏訪へ進出して行ったのであろう。また九州の海洋族、阿安曇(アズミ)族も姫川を遡り安曇野へ進出している。ここには、その祖神穂高見命を祀る穂高神社がある。穂高山系地名の由来。

●創建年代不詳、平安朝貞観3年(861)従四位下(彌彦神社と同格)。延書式内神名帳、越後国頚城郡十三座のうち居多神社とあり、そのフリガナは「ケタ」と読んでいる。

●鎌倉期以降、守護佐々木等・上杉氏の庇護をうけ社運も隆盛していた。しかし、上杉謙信の死後、養子景虎と甥の景勝との跡目争い「御館の乱」(天正6年1578)で宮司花ケ崎盛貞・家盛父子は景虎に与し敗れ、能登・越中へ亡命した。慶長3年(1598)上杉家が会津若松へ転封したため復帰した。現宮司花ケ崎盛明氏はその子孫である。
 江戸時代の社領百石。明治35年(1902)社殿全焼したので、仮社殿を造営し、現在に至っている。明治の社格は県社。

●杜宝 長尾為景祈願文・堀秀治寄進状・将軍家光朱印状・越後守護上杉憲顕寄進状等は居多紳社古文書として、上越市指定文化財に指定されている。

●越後の七不思議居多神社『片葉の芦』(居多神社案内書)片葉の芦とは「葉」が一方のみはえている芦である。親鸞上人が越後配流のおり居多神社を参拝された.「すえ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらんかぎりは」以来神社の芦は方葉となったという。

◎越後一宮禰彦神社(ヤヒコジンジャ)
            
〒939-0323 駈潟県西蒲原郡弥彦村弥彦 TEL 0256-94-2001
弥彦駅の北東約1`、弥彦山の東麓にある。越後開拓の祖神とする天香山命(アマノカゴヤマノミコト〕座を祀る。延喜武内越後国五十六座のうち唯一の名神大社とされ、越後筆頭の神社で、神名帳には伊夜比古神社(イヤヒコジンシャ〕と記されている。

●祭神 天香山禽(天香語山命・犬賀吾山命〕天孫降臨、瓊々杵尊供奉、諸源壇三十二神筆頭の神として高天原から降下。神々の系譜では、慶々杵尊の兄君とされる尾張一宮・丹後一宮の祭神・天火明命(マノホアカリノミコトの御子とされる。天照大神の曾孫にあたる。

●紀伊国熊野に住み、神武天皇東征時、功労があった高倉下命(タカクラジノミコト〕はこの神の別名であるという。のち神武天皇の勅命により、越国開拓のため弥彦山麓、野積浜に海路上陸された。この地に土着され、住民に漁業・製塩・農耕・酒造等の技術を指導された。大和朝廷は当時の先進ハィテク文明を導入し地方の支配体制を推進したと、見られる。命は漁法の手繰網手法を開発されたという。故に殖産の神として信仰されてきた。

●承和9年(842)従5位下、貞観3年(861)従四位下・村上天皇天暦元年(947)正一位。

●康平5年(1062)八幡太郎義家が安倍貞任、反乱討伐の戦勝祈顕をしている。源義経も勧進帳の安宅関を危うく通過し、平泉へ向かう途中、嵐のため寺泊に上陸して弥彦の地を訪れたと「義経記』巻七にある。

●戦国時代、永禄7年(1564)領主上杉謙信は蹟文を奉じ、宿敵武田信玄や小田原北条氏討伐の祈蹟をしていた。その頃、武田信玄も甲斐一宮浅間神社に太刀などを奉納して打倒、謙信を祈蹟をしていたという。それぞれの一宮が戦勝を願う神様であった。

●社殿 江戸時代、幕府直々の朱印領五百石。宝暦4年(1754)九代将章家重が再建したが、明治45年〔l912〕弥彦村大火のため焼失した。現在の社殿は大正5年(1916)に再建されたもの。明治4年(1871)国幣中社。

●神域は約13万u。朱塗りめ鳥居をくぐり、うっそうとする杉木立の間の、参道の石段を登った奥に、大破風正面・三間二面、向拝付き、回縁、勾柵・脇障子を備えた本殿がある。境内末社、十柱神社は元禄時代の建造で国重要文化財。神事として7月25日に行われる「灯寵祭」が有名である。

●背後の弥彦山(638b〕へはロープウェイで登れる。山頂に祖神天香山命と妃神熟穂屋姫命(ウマシホヤヒメノミコト〕の陵墓がある。祖神の御陵は「墓」。神社はその礼拝所としての「宮」。民俗学でいう「両墓制」である。これは新羅初代王朴居世(パクヒョンコセ)の事例もあり、半島からの渡来風習とされる