平成17年11月1日  −の宮巡拝  会報第26号

          郡 順史 先生 講演録
              

「戊辰東北戦争戦没者鎮魂慰霊並びに地球平和祈願祭』 平成十七年六月二十六日 靖国神社・靖国会館に於いて

150年目の鎮魂と慰霊

 
本日は、私ならぴに私と同様の考えや望みをもっていた者にとって、歴史的記念すべき日と相成りました。 それは、東北戌辰戦争で非命に斃れられた東北各藩の戦士達に対して、当靖園神社に於いて鎮魂慰霊の行事が出来たからであリます。いわゆる官軍方の戦没戦士達の御霊は当然の如く当社にお祀りされ、常時鎮魂慰霊の行事が行われておりますが、一方、賊軍と祢された東北各蒲の戦士たちは、これまでも、該地に於いて心有る人々によってそれなりに行われて来ましたが、それが百三十七年の時を経て、当靖国神社に於いて、敵味方などという別けへだてないお祀りが、いま、行われたのであります。靖国神社に於いて、という事実にこそ絶大な意味と内容が有り、その事こそが私が、歴史的記念日、と申し上げた所以であります。

 
この事は、当靖国神社さんのご理解と御許しをたまわったのは無論の事でありますが、同時に、寸前に病没なされた全国一の宮巡拝会の創立者であり代表世話人だった入江孝一郎さん、そしてその志を篤く受け継いだ、新代表の関口行弘さんならびに全国の会員の方々の懸命な努力と祈りの存在があったことを忘れてはならないし、感謝もしなければならない所でありましょう。

 
私が入江さんの知己を得たのは、今から四十年前、戦中派の会が創立されたときでありました。入江さんは創立委員の一人で、私に入会を誘ってくださったのです。当時戦中派の会の会員は「戦中派よ集れ、元気にもう一度お国の為に働こう」の呼びかけに応じて十万人集まったと聞きました。もっともその後内紛が続き、三年後、京田民雄さん、入江さん、私が代表委員を勤める頃は千人足らずとなり、年一回の総会にも百人、五十人と減りつづけ、ついに平成七年には解散のやむなきに至りましたが・・・。

 入江さんは戦中派として実に誠実に生きそして、死んだ人でありました。彼が私に最初の頃話した言葉に、こういうのがあ
りました。 「唄に、ああ堂々の輸送船、さらば祖国よ栄えあれ、とあるが、我々が銃を執って戦場に向う時、「さらば祖国よ栄あれ」と祈り願った祖国の姿とは、いまの、こんな姿だったのであろうか。断じて違う」と。
 そう、正に我々の祖国、そして国民は、端的に言えば禮節道義を忘れ果てた、金の亡者と化した盲鬼の如き姿になり堕ちたのです。入江さんは、元々信仰心の篤い人でありましたが、この人間畜生道に堕ちた日本及び日本人を正すには、日本古来か
らの神々を尊奉する精神をとり戻し、おすがりするより法はない、との思いにいたったようであります。 そして尚も研鑽精進を重ねた上、元禄の昔、橘三喜が全国の「一の宮」を巡拝し、神々へ天下の泰平と個的精神の豊穣を祈願したのにならって、日本人皆で神々に祈り巡り、お願いするのが最善との結論に達し、まず自ら橘三喜の足跡をたどり全国の一の宮を巡拝し、その至福の結果を心有る人々に呼びかけ、多くの賛同者を得、今日の巡拝会の基礎を成したのでありました。


 
その過程に於いて、これは入江さんの独特の発想でありましたが、世界を地球ぐるみ平和安穏にするには太古から続く戦争を無くすこともむろん大事だが、その前に、過去敵味方に分かれて戦い、無念非業のうちに生命を落とした人々を、敵味方と小さく分けずに鎮魂し慰霊することのほうが、いま生きている人間として大事ではないか、と考え至り、ただちに実行に移しました。
 凄い発想です。そして、実行力です。宗別に団執する宗教家には出来ない発想でしょう。たとえ発想しても実行は出来ないで
しよう。 入江さんはこの発案のもと、まず元寇の乱の敵味方鎮魂慰霊を両戦士がもっとも多く眠る壱岐の島で実施、日本では高野山の大聖上を、モンコルからも高僧をお呼びして、テレビ新聞など報道関係者も多数囲む中で厳粛且つ荘重に行われ、参列者に深い感銘を与えたのであった。


 私は「全国一の宮巡拝会」の会報に橘三喜の伝記小説を連載している関係で(壱岐は三喜の生地)お供しましたが、行事が終わってから質問しました。
 「こうした行事は、日本国内でもやるつもりですか」
 「生命の有る限りやります」
 「では、ぜひ、東北戌辰戦争の慰霊祭を、靖国神社でやって下さい」
 「無理をおしてもやって戴けるようお願いしてみよう」
 入江さんは力強く頷いてくれましたが、彼も私も、難しいと覚悟していました。これまで、いわゆる賊軍と呼ばれた戦没戦士た
ちの慰霊鎮魂の式典を、どれだけ東北戦争で戦没された遺族子孫の方々が熱願し、また企画したか、それは知りませんが、少なくとも記録としてはただの一度も行われたとはとどめられておりません。


 
それがこうして、靖国神社の三〇〇萬英霊の御前で、微少ではありましょうとも、はじめて天下堂々と神道式による票祀を行
うことが出来たのであります。

 そもそも大正六年の九月八日、時の政友会の総裁、後の平民宰相とよばれた原敬が、はじめて盛岡に於いて南部藩の東北戦争戦没者の慰霊祭を行った時「官と呼び賊と呼ばるるも、政見の異動のみにあり、東北、誰か朝廷に弓を引く者あらんや。勝てば官軍負くれば賊は俗謡なり」と喝破した如く、本来は賊軍も官軍も無かったのだ、という言に、私も深く同感するところであり
ます。 私は十五年前、岩手県盛岡市の盛岡タイムスという小さな新聞に、南部藩最後の家老で、私が最も武士らしい武士として進退したと信ずる楢山佐渡の生涯を、一年余小説として連載したことがございました。


 
為に岩手県へは七、八度取材に行きました。そして連載しているうちに二つの疑問に行き当たりました。そのうは、南部藩の武士はむろん農民漁民町民、すべての領民が、皇室の事は理屈その他ではよく理解していないのにかかわらず、尊皇の心の篤いことでした。天子様と口にしていましたが、皇室朝廷の話になると、膝を直して正座するのです。

 この人たちが何故、後に「賊」「賊徒」と呼ばれねばならなくなつたのか、理解解訳に苦しみ、筆も遅滞しました。 しかし後に、私なりに理解出来ました。取材に廻っているうちに、どこの家にも神棚、仏壇があり、その神棚には必ず大神宮のお札がまつってあるのです。そしてそれを朝夕家中でおがんでいるのです。

 
ああ、これだ、と理解出来た瞬間、原敬の言葉が素直に胸に落ちました。以来私は、この事に関しては私なりの史観で維新戦争をみるようになりました.むろん正邪は別の事でしょうが。 それともう一点、今日でも「何故?」と疑問に思うのは、どうしてこの戦争によって、双方で何千人という尊い血を流さなければならなかったのか、という事であります。

 周知の如く会津蒲は、前後八回にわたって朝廷に降伏恭順謝罪の意を表し、謝罪状を奉呈しているのであります。いわゆるまつたく抵抗の意志の無い無条件降伏の意志表示であります。この真摯な会津蒲の態度をみて、東北の各藩は、仙台藩の主導によって、同じ東北に在る藩としての友情を示し、会津蒲の悲願貫徹を応援しようと、会議を持ち、運動しました.いわゆる「武士は相見互い」の一つの武士道的行動化であり、はじめは少しも反抗する意志は無かったのであります。

 
しかし一方の薩長を主体とする官軍側は、これを東北各藩の結束しての反抗と見てか、或いは他の東北各藩はともあれ会津
藩だけは徹底的に消滅させねば国内統一の大業は成らぬと感じてか、会津並に東北各藩の応援嘆願書のことごとくを握り潰し、京都へ通じようとはしませんでした。そして血で血を洗う最大の内戦に至ったのであります。


 この時薩長側に、少しでも、かの蓮月尼の和歌にある 「仇味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人とおもえば」の同朋愛のたとえ片鱗でも有ったなら、戦争も起こらず従って何千人という戦士の血も流れないであったろうに、どうしてもやらなければならなかった内戦であったのであろうか。これが私の小説を書いていく上の第二の疑問点でありました。

 
こうした事から、私は入江さんに国内で敵味方慰霊鎮魂祭をやるなら、どうぞ東北戦争で戦没した方々のお祀りをやって下さい。それも靖国神社で、とお願いした次第であります。 それが、その悲願念願が、今日、ともあれ実現し、かなったのであります。慰霊を受けられた方々、入江さんの御霊、そして一の宮巡拝会の方々、この噂を耳にした東北戦争の遺族子孫の方々のお喜びは察するにあまりあるものと思います。驥尾に付して末席をけがさせて戴きました私も、いま、バンザイを叫びたい喜びにあふれた心境であります。

 
拙い話を縷々述べさせて戴きましたが、最後に皆様に一つだけお願いがございます。 いま私が、ここで両掌を合わせ、五秒間だけ瞑目し、あらためて戦士の鎮魂と、入江さんの念願の地球平和の祈りを、入江さんの御霊と倶に祈願したいと思いますので、宜しくお願いいたします。 合掌。瞑目。有難うございました。