厳格な教義擁護者  改革派に容赦ない攻撃

 バチカンの長官の中でも教義という中心問題を扱う教理省長官を八一年から前法王死去まで二十年以上務めた。前法王の遺志を引き継ぎ、離婚や中絶を認めない家族や性道徳に関し、厳格な態度で知られる「保守派」の代表。改革派に対する容赦のない攻撃と揺るぎのない教義擁護の態度から廠格な教義擁護者改革派に容赦ない攻撃「甲冑枢機卿=かつちゆすうききょう」のあだ名もある。

 司祭に任命されたのは一九五一年。二年後に発表した聖アウグスティヌスに関する論文執筆で、教会初期の指導者で教義の信奉者だったアウグスティヌスに強い影響を受けたのが「保守派」のスタート。五九年から七七年までボンなど当時の西独各地の大学で教鞭を取った。六八年の大学紛争当時、「進歩派でいることを欲するものは魂を売ることだ」と述べ、改革派を非難した逸話がある。

 これに先立ち、「開かれたカトリック教会」を目指す第ニバチカン公会議(六二ーハ五年)の理論家になり、枢機卿団の改革に乗り出したこともある。このため、改革派から保守派に転向した米国の保守派になぞらえ、「ネオコン」とも呼ばれている。八一年に前法王に呼ばれてバチカン入りし、教理省長官に。大多数の前任者がこの「極めて微妙なポスト」(関係者)にふさわしい法王庁のベテラン管理者だったのに対し、教義擁護者の立場を鮮明に打ち出し、進歩的解釈に抵抗した。プロテスタントやロシア正教などとの「キリスト教一致運動」の理論家の教導を禁止したことむある。コンクラーべ(ローマ法王選出会議)冒頭のミサで最年長者として言葉を述べたが、この中でも「時流」に魅了された者として「改革派」を牽制した。

1927年四月十六日、ドイツ・マルクトル生まれ。第二次大戦末期には対空防衛の補助部隊員として招集された。十四歳のときにヒトラー青年団への入団が強制化され、やむなくそのメンバーとなった。(バチカン市・山ロ昌子)