アノミー(anomie)とは何ぞや。 これはフランスの社会学者エミール・デユルケム (一人五八〜一九一七) の用語であり、普通「無規範」「無秩序」などと訳されるが、それはむしろアノミーが引き起こす結果である。 そこでこの言葉を一言で定義すれば、「無連帯」というのがその本質である。 人と人とを結びつける連帯(solidarite)が失われ、人々は糸の切れた凧のようになり社会をさまよう。孤独、不安、狂気、凶暴。気弱な人は死にたくなる。いや、死んでしまう。アノミーはどんな病気よりも恐ろしい (二九四頁、三九五頁参照)。 会社も、変容を遂げていく。多くの日本人が誤解していることに、終身雇用制や年功序列が日本的経営だという認識があるが、これはとんでもない間違いで、この制度は以前の日本にはなく、決して雇用慣習ではなかった。では、いつからそうなつたかというと、このアノミー状態を収束していく昭和三〇年代半ばからである。この制度を導入することにより、日本の会社は本来の利益追求団体から、共同体へと性格を転換させていった。 この両者以外にも一部の宗教団体、新興宗教によってアノミーは吸収されたが、宗教団体も割合にもろく、一旦急増はしたものの急速にカを失っていったのである。だからその間隙を埋めるために起きてきたことが校内暴力と家庭内暴力。そして、九〇年代に狷獗を極めたカルト教団が出てきたのである。 カルト教団とマルキシズム 天皇教が敗戦によって壊されて、それによってアノミーが生じた。その空白を埋めるべく現れたいまのカルト教団やその前にはマルキシズム、その中間に存在する家庭内暴力や校内暴力というのは、その意味で全く同形といえる。 しかし、大学紛争、それにその周辺のイデオロギー活動などには説明できないものもある。それは本質がマルキシズムなどとは別物だからなのだ。 筆者は安保論争時にはアメリカに留学中だった。その当時、安保騒動の指導者がどんどんアメリカにやって来たので、私は片っ端から質問してみたのだ。「君たちは安保のどこに反対なんだ?」。大体みんな、「始めから終いまでみんな反対だ」と答えてくる。それで、一番の急所を聞いてみた。急所は、安保そのものに反対なのか、改正に反対なのか。 ところがその答えはどつちであるのかもはっきりしない。とにかく絶対反対だと断ずるのみ。 いろいろ細かいことを開いてみると、この連中は安全保障条約なる代物を読んだことがないということがわかってきた。つまり彼らは、全く知りもしないもののために絶対反対と主張し、命を捨てるといっていたのだ。彼らは要するにわっしょいわっしょいと騒ぐことが目的だったのである。 それから十年たって、大学紛争の嵐が吹き荒れたとき、やはり驚くべき現象があった。あれだけの大きな紛争だったのに、彼らの掲げた要求というのは処分反対くらいのものしかなく、何の具体的要求もないし、改革案もない。その点、カルテエラタンに代表されるヨーロッパの大学紛争とは全く違い、これもやはり、彼らの目的は騒ぐこと自体にあったのである。 騒げば連帯ができる。連帯ができれば気持ちが楽になる。参加する人間にとってみればカルト教を信ずることと全く同じことである。かつて三菱重工のビルを爆破した狼グループという極左がいて、その闘争手段は無差別殺人であった。その点右翼だったら狙った人間を必殺する。殺すだけの理由を持って殺す。 ところが狼グループはそうではない。誰でもいいから殺してしまえ、という論理なのである。 カルト教団も同じことをやった。誰でもいいから殺してしまえ、サリンを撒いて誰が死んだところでかまわない。社会学的にいえば、両者の構造は全く同じことなのだ。 |