岩宿赤土への執念【T】
聞き書き 人間・相沢忠洋

あばら家が研究所

岩宿遡跡を発見し、日本に旧石器文化があったことを初めて実証した相沢忠洋氏が亡くなったのは五月二十二日だった。今年は昭和二十四年の同遣跡発掘.から四十年。赤城山ろくの旧石器遺跡の探求に情熱を燃やし続けた相沢氏の人生を生前同氏を知る人たちの聞き書きでたどってみた。.

「出会い」
相沢未亡人、千恵子(53)が初めて相沢と出会ったのは昭和三十八年の十月初旬ごろだった。当時、相沢は佐波郡
赤堀村に「東毛考古学研究所」を開いていた。「赤堀に面白げな人がいるから会いに行こうって、出かけたんですよ」。千恵子は当時二十七歳。桐生市内でも指折りの大きな材木.屋の末つ子で、桐生女子高を卒業後、家業を手伝っていた。お花のサークルで、花器の話題が縄文土器の話に発展し、土器の作り方を岩宿の発見で有名だった相沢に聞きに行った。

からつ風の吹く寒い夕暮れ。見つけた研究所は「今にも崩れそうな農家」だっ..た。相沢は「行商から帰ったところだったんでしょう。庭先で納豆の整理をしていました」。.千恵子が「あんまりすごい家なんでビックリした」のと同様、相沢も当時まだ珍しかった青色のフォルクスワーゲンが庭に止まり、若い娘が降りてきたのには驚いたらしい。「『今晩は、相沢さんですか?』って言ったら、うさん臭そうな感じでにらまれましてね」当時、相沢は三十九歳。

妻と子供が二人いて日焼けして背が高く、精かんな感じだった。事情を話して土器作りを教えてもらうことになった。
遺跡にはまったく興味なかったんですが、以来発掘の手伝いをするようになりました。相沢と結婚するようになるなんて夢にも思わなかったですねえ」相沢と相沢の後半生を支え続けた千恵子の出会いだっ
た。=敬称略(つづく)


岩宿赤土への執念【U】

厳しい生活の中で
 「清貧」

 
千恵子が相沢と出会った昭和三十八年当時、相沢の学問的業績はある程度知られていたが、経済的には恵まれない生活が続いた。千恵子が「あんまりすごい家なんで」と驚いた自宅は土間と六畳と八畳、それに納戸のある古い農家を貰ったもので、破れたふすまの穴から猫が出入りしているような家だった。 「あの家はねえ」。昭和三十七牢以来の相沢の協力者で、税理士の仕事のかたわら旧石器研究を続けている関矢晃(47)が語る。

「雨もりはしなかったけど、すきま風はすごかったですよ。家の中から外が透けて見ましたから。奥さんがミシンを踏んで内職をしていて、相沢さんの座り机の周りに子供さんが遊んでいましてね。家じゅうに石器や資料があって、そう、つくだ煮の箱に入れてありましたね」 お金に余裕のある時には、訪ねて行った閑矢に店屋物をとってくれた。「相沢さんは自分の分は食べないんですよ。『今、おなかがいっばいだから』って子供さんにあげてました。優しい人でしたね」
 相沢は朝五時ごろ起きて納豆の行商に出かけ、昼は研究や遵跡探し、夕方六時ごろからまた行商に出かける、という毎日だった。研究をまとめなければならないので夜も遅い。

 そんな厳しい暮らしにひと息つけたのは昭和四十四年に「岩宿の発見」を刊行し、印税や講演料が入るようになってからだった昭和四十八年一月、前未人が病死した。相沢は残された三人の子供を育てながら研究を続ける。千恵子と再婚したのは五十二年十一月、脳いっ血で最初に倒れたこ年後だった。=敬称略(つづく)

岩宿赤土への執念【V】
1989年(平成元年).6月17日(土曜8)

.埋もれかけた名前
「功績」

相沢の著書「岩宿の発見」の後書きに「思えば私は人間嫌悪を長く心に秘めて今日まできた」とある。相沢の脇力者、関矢晃.は「岩宿でのショックが尾を引いていましたからねえ。私にも最初は警戒心が強かったですよ」と語る。岩宿でのショックとは何だったのか。昭租二十四年九月二十日付の新聞は大きく「旧石器の握槌(にきりづち)」と岩宿遺跡の発見を報じている。だが、そこには相沢の功績についてはほとんどふれられず、.「明大の助教授が発見」とのみ強調されていた。名もない相沢青年の功績は世に出ることなく終わりかけたのだ。相沢の生涯の理解者で旧石器研究の第一人者、芹沢長介東北大名誉教授が「当時を知っている生き証人は僕一人になってしまったから」と、そのいきさつを語る。

相沢は石器の発見を当時明大学生だった芹沢に告げ同大の助教授らと発掘したのだが、明大の発表用原
稿には当初、相沢の功績について一行もふれていなかった。芹沢は訂正を申し込,み、発見者が相沢であることを明記するよう求めた。その結果、発表時には相.沢が収集した石器から明大助教授が旧石器を発見したと訂正されたものの、最後まで相沢は「発見者」とされなかった。

これも一因となり、芹沢は後に明大を去る。以来、芹沢は岩宿の真の発見者が相沢であることを書き続けた。「こういう例は多いんです。あの時ほうっとい.たら相沢さんの名が埋もれてしまった。本当のことを隠し、やりたい放題だったら学問とは言えない」これが相沢の心の傷になったことは想像に難ぐない。以後、.学閥、学歴の壁が相沢を苦しめることになる。=敬称略(つづく)

岩宿赤土への執念【W】
6月20日(火躍日)1989年(平成元年)

歴史変えた出会い
「学界」・

「あなたに会わなかったなら、私の人生は大きく変わっていたと思います」。六月十日、桐生市営斎場で行われた相沢の告別式で、東北大名譽教授の芹沢長介はこう弔詞を述ぺた。この出会いは芹沢と相沢の人生だけでなく、日本考古学史も変えた。昭和二十一年に岩宿の切り通しから石器片を発見して以来、岩宿を調査し続けた相沢は二十四年七月中旬、ついに黒耀(よう)石.の槍型旧石器を発見する。だが、相沢は学者に告げるのをためらった。「日本には旧石器時代はない」が定説だった学界が取り合ってくれるか不安だった。

同年七月二十七日、当時、明治大生だった芹沢は友人の慶応大生、江坂輝弥(現同大名誉教授)宅を訪ね、そこで復員服姿の相沢と出会う。当時「東京考吉学会」という若手研究者の集まりがあり、日本人の起源を探ろうとの機運が出ていた。相沢と芹沢は共に会員だった。相沢は初対面の芹沢に岩宿の石器について打ち明けた。芹沢は即座に重要性を見抜き、相沢と連絡を取り合うようになる。日本旧石器時代の厚いべールははがされ始めた。

「当時の地質学者や考古学者はだれも赤土(ローム.層)に注目しなかった。岩宿の発見以後、ほかの人が何をやっても相沢さんのおかげを受けている」と、芹沢は語る。芹沢はその後、旧石器研究で日本の第一人者の道を歩むが、相沢の終生の理解者であり続けた。「真実を求める学問にはアマチュアも学生も先生も関係ありません」。芹沢の静かだが力強い口調に研究者の良心がこもる。,「相沢さんは芹沢先生には本当に感謝してましたね。芹沢先生に会わなかったら岩宿も世に出なかったでレよう。芹沢先生が来るという日にはソワソワしっ放しで、そりゃもう大変なものでしたよ」と関矢晃。

学界での理解者に恵まれなかった相沢に、芹沢の友情はかけがえのないものだった。=敬称略くつづ<)

岩宿赤土への執念【X】
1989年(平成充年)6月21日(水曜日)

古代人の息吹を
原点」

相沢は遺跡を発掘する時「白分が旧石器人だったらどごに住むかを念頭に入れて地形を読む」と「赤土への執念」(佼成出版社)で述ぺている。掘る前に古代人の生活、喜怒哀楽を肌で感じとるのだ、と。柏沢は少年時代鎌倉で送った。父は和笛奏者で歌舞伎の巡業団について留守がちだった。父が不在中の妹の病死をきっけに父母は離婚、一家は離散した。相沢少年は東京・.浅草のはきもの屋に奉公に出る。

日本が中国で泥沼のような.侵略戦争にのめり込んで行った時期である。暗い世相と孤独な奉公生活の中、相沢少年は一家団らんの温かさにあこがれ続けた。「相沢は発掘の世界に学問的に入ったのではなく、人間的に入ったんです」と千恵子は語る。鎌倉での少年時代、偶.然、裏山で土器片を拾って以来、相沢は家族がいろりを囲んでその日の出来事を話し合うような古代人の生活の姿を求め続けた。

「自分の生い立ちに照らして遺跡に温かさを求めたのでしょう。普通の人ではあれだけの執念は持てなかった。相沢は石器を単なる石としては見て、いませんでした。私にも、『これは石と'思うな』ってよく言ってました。『石器は古代人の温かさが伝わってぐるものだ』、と」相沢は石器に残された古代人の体温を感じとり、赤.士に埋もれた遺跡に古代人の生活の声を聞きとれる男.だった。相沢が遺跡を探し調査して歩いた道は、巡礼にも似た心の旅でもあった。

石器はある時は身を守る.道具であり、.ある時はそれで獲物の肉を切って子供に与えた道具。.遺跡はその生.活の舞台。相沢の発掘の原点は物言わぬ遺跡に人間の息吹を呼び戻すことだった。=敬称略(つづく)

岩宿赤土への執念【Y】
.卓抜した能力発揮
「技術」

遺跡の発掘は地味な名作業である。ただむやみに彫ればいいというものではない。乱掘は遺跡を破壊してしまう。作業は「掘る」というより「土をめくる」と言った方がいい。一日中、赤土と向きあい、丹念に、二センチぐらいずつめくっていく。気の遠くなるような作業である。相沢は発掘に抜群の技術を持っていた。

「こぶだらけの大きな手でね、腕力があったよ。トレンチ(地層を調べるため試掘するたて穴)を真っすっぐに掘れた。普通は曲がっちゃうんだけどね」と長介は語る。赤土は粘り気が強く、固くて掘りにくいoスコップを突きたてても少ししか掘り進めない。赤士のついたスコッブの握り手はつるつる滑る。体力と粘り強さが欠かせない作業だ。相沢はスコップと竹べらを自在に操り、次々とローム層から遺跡を掘り出した。

「相沢さんがまとめて見つけたので、後の連中はやることがなかったよ。彼の主導で発掘が行われていたら、,日本の旧石器研究はもっと進んでいただろう。彼の発掘は個人発掘で、大学や研究所がバックになかったのが残念だ」と芹沢は惜..しむ。畑を発掘するには、土地所有者に発掘期間中の休業補償を支払わねぱならない。少しでも経費を節約するため、相沢の発掘は農閑期の冬が多かった。からっ風に激しく吹きつけられ、寒さに耐えながら相沢は発掘を続けた。

発掘の技術とともに、相沢は適跡を見つけ出すのも天才的にうまかった。「相沢の歩いた所には必ず遺跡が出る」とさえ言われた。「遺跡の踏査に行く時はローム層の露頭を探すんですよ。ガケにへばりついて足場を作りながら登ってね。登ったはいいが、降りられなくなったなんてことはしょっちゅうでした」と、関矢晃。
相沢は単に遺跡を視察する時でも作業服に長ぐつや登山靴で臨んだ。現場を徹.底的に重視する姿勢の表れだった。=敬称略(つづく)

岩宿赤土への執念【Z】
苦闘の人生支える
「夫婦愛」


昭和五十二年十一月十八.日、相沢は千恵子と再婚し.た。当時、相沢五十歳、.千恵子三十九歳だった。二年前の十一月、相沢は最初の脳いっ血の発作で倒.れている。千恵子の周囲は猛反対した。『病み上がり
の五十男でしょう。反対するのも当然ですね」と、千恵子は笑う。「相沢のどこに魅(ひ)かれたんでしょうね。相沢が岩宿を発見した時、『納豆屋が遺跡を見つけた』っで言われたでしょ。相沢は、たまたま納豆屋だづたのではなく、遣跡を見づけたいためになったんです。朝晩以外は自由に時間が使えますからねoそんなところでしょうか。世の中の男の人には、自分の本当にやりたいことがあっても、女房子供のことを考えてそうは生きられない人が多いと思うんです。相沢の男の生き方に共鳴したんですね」千恵子は相沢の講演について行きスライド係や助手を務めたり、相沢が岩宿と-共に最も惜熱を燃やした夏井戸遺跡の発掘を手伝ったり、と相沢を助ける。「私の実家の材木を運ぶトラックで発掘に行っちゃって、『この忙しいのにトラック持ってって』なんて実家から怒られたりしましてねえ」相沢の人生は苦闘の連続だったと言ってもいい。その相沢を支え続ける千恵子の人生も並大低のことではなかった。

「経済的に恵まれず、学界からは異端視され、周囲からは変人扱いされている。そんな人を支えてやりたい気持ちーIそれを愛情と言えば言えるかも知れない。この人の人生は本物だ、ということを世に知らせてやり
たかったんです」.だが、相沢と千恵子の結婚生活に平穏な時は長くなかった。結婚二年九カ月後、相.沢を二度目の脳いつ血が襲った。敬称略(つづく)

岩宿赤土への執念【[】
医者知らずの体が
「発,病」

相沢の精神と肉体の頑健.さは関係者、知人の間で有名だった。.岩宿の発見前後、桐生と東京都大田区蒲田の芹沢長介宅との間約百二十キロを自転車で行き来した。まだ暗い午前三、四時ごろに家を出、東京に着くころには全身真っ白のほこりだらけ。途中の水道で体を洗い、着替えて芹沢宅に着くのは午後になっていた。荷台の納豆を入れる竹カゴに着替えの洋服を帆のように立て、からっ風を背に受けて走ったという。その相沢の肉体に病気は静かに忍ぴ寄って来た。.

最初に脳いつ血で倒れたのは昭和五十年十一月。松井田町での発掘の帰り、タ食をとりに入った伊勢崎の食堂で倒れた。伊勢崎病院.に入院、血圧を測ったら上が二百四十もあった。この時は歩いて病院にやって来た相沢を見て、医者が驚いたほどだった。相沢は医者知らずで、自分が高血圧であることすら知らなかった。翌年三月初旬に退院し、幸い後遺症も残らなかった。二度目に倒れたのは五十五年八月、赤堀の長男宅でだった。再び伊勢崎病院に入院、翌年一月退院した。

左半身、特に足に後遺症が残った。「やはり無理してたんですね。昭和五十年代には行政発掘(開発工事で発見された遺跡を自治体が調査する発掘),を頼まれることが多くなって、少ないけど手当が入るのでよくやってましたし」と、千恵子は顔を曇らせる。相沢の私的な発掘には公的な援助は最後までなかった。病状が好転した五十六年には、千恵子と関矢晃の三人で芹沢に招かれて仙台の宮城県立博物舘に芹沢が発掘した座散乱木(ざざらぎ)遺跡の展示会を見に出かけられるようにもなった。「関矢さん、人の本ばっかり高い金出して買ってないで、オレたちも自分の本を出そうや」と、相沢が念願していた本の刊行準備も始まった。相澤を三度目の発作が襲ったのは五十八年の一月だった。敬称略(つづく)

岩宿赤土への執念【\】

励ましと愛情の中
「闘病」

昭和五十八年一月、三度月の発作で桐生厚生病院に入院した相沢の容体は思わしくなかった。.二月に一度重体に、翌五十九年六月に.も重体に陥った。だがその度に相沢は持ち前の体力で危機を切り抜けた。病室には六インチのテレビとビデオが置かれ、闘病生活の慰めとなった。相沢は二ユースや時代劇を好み、特
に遺跡発掘関係のニュースを熱心に見た。相沢の闘病生活を知った全国の考古学ファンからは二百通を超える励ましの手紙が寄せられ、浦和市の中学生からは千羽ヅルが送.れられた。六十年三月には「相沢忠洋氏をはげます会」が七条小次郎・群大名誉教授(その後死去)ら三十二人で作られ、入院費の援助を受けることもできた。

相沢の永年の協力者、関矢晃は相沢の発掘成果の集大成「赤城山麓(ろく)の旧石器」の編集に取り組み、六十三年十一月、講談社から刊行にこきつけた。「すでに会話は難しい状態だったんですけどね、本を持っていくと『これはおれの石器だ』って喜んでました」と、関矢は語る。発掘への情熱は最後まで衰えなかった。千恵子は病院に泊まり込んで看病を続けた。

「大変だろうってみんなが心配してくれたけど、全然そういう気はなかったです。六年四カ月看病しましたが、七十五までは生かしてやりたいと思ってました。幸い、看病に専念しても生活できましたし、相沢はそれまでの一生ですごく苦労してきた人間だから、今は休んでいるんだ、相沢の人生で一番安らかな時を送っているんだ、と考えて.ました。相沢が一生懸命生き、気持ちの優しい人間だったから、なんの不満も感じないで看病してあげることができました」相沢は千恵子の深い愛情に包まれて、闘病生活を送った。
敬称略(つづく〉

岩宿赤土への執念【]】
旧石器期の人骨を
「夢」

相沢の病状は小康状態を保っていた。今年五月二十一日午後九時ごろ、千恵子は病室を出た。相沢は顔色もよく変わったところは見られなかった。いつも帰る前に握手をしてたんで、握手をして病室を出たんです。でも、なぜだか家に真っすぐ帰る気がしなくて、先生と話をしてたりして病院を出たのは午後十時四十分ごろでした」翌二十二日午前六時過ぎ、相沢が発熱したのですぐ来てくれ、と病院から電語が入った。駆けつけた千恵子の前に、脳内出血が再発し心臓マッサージを受けている相沢の姿があった。

千恵子と子供に見守られて相沢が息を引き取ったのは同日午前七時三十八分。六十二年の生涯だった。.六月十日、桐生市斎場で行われた告別式には芹沢長介や関矢晃らの旧友をはじめ約五百五十人が参列した。千恵子は「六十二年という生涯は天寿は全うできなかったかも知れませんが、相沢は温かい先生、多くの友人に悪まれて、仕事の面では幸せに人生を全うしたと思います」とあいさつした。

貧しい生い立ち、一家離散、学界の厚い壁との闘い。「まったくの素朴な人柄」(千恵子)で、清貧な在野の研究者の生き方を貫き、それまでの学説をくつがえす輝かしい業績を打ちたてた相沢。「日本旧石.器文化研究のパイオニア」(芹沢)、「内に厳しく外には優しく、良寛さまのよ.うな人生哲学の持ち主」(関矢)だった相沢の最後の目標は旧石器人骨の発見だった。

相沢は旧石器だけでなく、旧石器人の骨を発見する夢を持っていた。だが、.酸性の強い日本の士壌では人骨は残りに<く、空襲で焼失した幻の明石原人の腰.骨を除いて、旧石器人骨の.出士例はない。.相沢に続く研究者が旧石.器人骨を発見し、相沢の夢だつた日本人の起源を解き明かす日はいつだろうか。敬称略(おわり)

相沢氏が赤堀村で開いていた「東毛考古学研究所」(芹沢長介著 「日本旧石器時代」岩波新書より)
毎日新聞・群馬 1989年(平成元年)6月15日〜26日連載