あとがきに代えて(P−200)
岩宿文化誕生
岩宿遺跡は昭和二十四年九月十一日から十三日にかけて、三日間にわたる小発掘を予備調査とし、この成果を杉原先生は九月二十日に新聞発表する、といいおいて帰京された。私はこの発表を心待ちにした。一日千秋の思いとは、こういうときの思いではないかとも思った。待ちわびた二十日の夜明け、私は飛び起きて桐生駅へ走った。新開売りのおばあさんが、売り台の用意をして朝刊を並べはじめるのももどかしく、朝日、読売、毎日とインキのにおいのする新聞をひろげて活字を追った。
あった、あった!
「旧石器時代の遺物 −桐生市近郊から発掘ー」という見出しで、杉原先生があの握槌の石器を手にしている写真を掲載しているのもあれば、岩宿の位置を示す地図を載せているのもあり、それぞれに大きくあつかっているのだった。 私の胸は高鳴った。さっそく買い求めて、新開を小脇にかかえこむようにして家へ帰っていく道で、「ついに岩宿文化は誕生したぞ」と心で叫んでいた。そして家へ帰っても、私は何度も何度も各紙の記事をあくことなく読みかえした。
このとき、私はちょうど引き掲げの長旅から帰って、背中の荷をおろしたときにも似た気持ちになっていた。 やがて十月二日から十日余りにわたって本発掘が実施された。明治大学考古学研究室を中心とする、杉原先生が隊長の岩宿遺跡発掘調査隊の本発掘、本調査で、その調査、設営などの裏方の仕事に私は走りまわった。
「旧石器時代の遺跡発見」との新開発表によって、私が予想していた以上の大反響の波が岩宿の丘に集中してきた、といっても過言ではなかった。明石原人の発見者で有名な直良(なおら)信夫先生も来られた。明大の後藤守一先生ほかいろいろな先生がたが岩宿にこられた。旧石器時代の遠古の文化が赤土のなかから発見されたということに、関心と好奇と、多少の疑或の目が向けられ、続々と多くの人びとが群がり集まってきた。
私が予期していたように、山洞・山曽野グループは、前に彼らが掘った普門寺遺跡をタテにして、岩宿発見にたいする否定的言辞を流しはじめた。このことはいまもなお形こそかえながら、つづいている。 いつも静かに眠っている岩宿の丘は、にわかに騒然となった。そしてこのことは、私の長いあいだ抱きつづけ追いつづけてきた夢を、かき消してしまう結果を生んだ。 こうして三年余りもかけて追い求めてきた私の夢は、いまや学問の世界のなかへ現実の形とし てその映像をうつしだしていったのであった。
騒然とした発掘調査も終わり、調査隊が引き揚げていったあと、十月中旬のある日、私はひと り遺跡に立ち、所在ない気持ちで山寺山に登り、いま二つの道の岐路に立つ私自身の出発点に 立っていることを思わないではいられなかった。 私のたどるべき二つの道ーそれは一つには、関東ローム層中の未知の石器文化が、現実の日 本の考古学という学問の世界にうぶごえをあげて歩みはじめ、それをより健全な姿に育てあげていくことであった。 そしていま一つは、孤独だった少年の日から心に求めてきた一家団らんへの思慕ということが 遠大な世界のなかにひろがり、さらに、そのなかになお追い求めていくことになったのである。 この二つの道は、時としてあい接近し、また速く距り離れることはあっても、今日もなお私の
上につづいている道なのである。
父母の死
昭和36年11月ーー「山師のようなことはやめて働いて金をためろ」といいつづけた父は、空っ風が吹きはじめた前橋市の一隅で悩血栓で床に臥していた。そんなとき思いもよらない通知がきた。群馬県では最高という「県功労章」をいただけるという通知であった。五十五歳以上でなければだめという賞を、特別にオリンピックで活躍した相原信行氏と私にくださるという。私はお受けしてよいものかどうか、当或した。しかし病床の父におくる息子の私の人生目標のただ一つの証はこれしかないと考えてお受けすることにした。
十二月二十三日、群馬県庁の正庁の間で受賞、その式が終わるとすぐその足で父の枕べに急いだ。その日いくらか気分がよかったのか、父は口もとをほころばせ、私が、「県知事さんからこの貰をいただいてきた」 と、大きな賞状と銀盃を手にとらせると、「よかったなあ、おまえやみんなに苦労をかけてすまなかった」 といって、何度も何度も、やせ細った手で銀盃をなでさするのだった。その五本の指先には、かたいたこができていた。長い間吹きつづけてきた笛の芸ひとすじにうちこんだ男の指を、私はこのときはじめてしみじみとながめやった。
だが、私が父と交わすことのできた数少ないことばは、これが最後だった。その夜ふけ、寒気のさしこむなかで昏睡状態におちいり、十二月五日、七十九歳を一期として黄泉の旅にたっていった。昭和三十九年、その年を送る除夜の鐘が鳴りはじめたとき、電報がとどいた。房州鴨川の生地で母が危篤という知らせだった。四十年元日の朝早く、私と妹は母のもとに急いだ。母は私たちの顔を見るなり、ぼろぼろ涙を流した。 そのあふれ出る涙を、もはや母自身の手ではぬぐえない病状だった。松もとれ、七草もすぎたころ、母はこの世を去った。母が暮らしていた家の庭には、母が丹精をこめて育てたなつみかん の実の黄金色があざやかだった。
父には男として、母には女として、それぞれの人生の歩みがあったのだと私は思った。父に とっても母にとっても、それでよかったのかもしれないと私には思えるのだった。それが人間の 歩みとしての一端であるとするなら、また私も同じような道を歩みつづけていくのだろう。ただ 許されるならば、親子が一家団らんの生活をもう少し味わいたかったということである。
赤土のなかに、遠大な時の流れをきぎみつづけた人間の体臭を求めて二十三年余、その間、私 はひたすらに岩宿文化を育てるのに懸命であった。百キロの道を自転車で上京したことも、再三 ぁった。この世に生を得てすでに四十年をすぎたいま、私は自分の心にいいきかせている。それ は人間として、一人の男として、【肌に錵(にえ)、心に匂い】を求めつづけていきたいということである。
昭和四十二年、春まだ浅いころ、東京からの電話で、まったく考えもしなかった知らせを受けた。破格の大賞である吉川英治賞を授賞することに決まったというのであった。 この受賞の喜びを、私はだれに知らせ、誰れに喜んでもらったらよいのだろう。 受賞の日、うれしかるべき私には、なぜかさびしさがいっぱいで、胸がふさがるばかりだっ た。ただ戸或うばかりだったのである。 授賞式の後、はるばる桐生からかけつけてくださった友人を江戸川まで送って、その帰途、私 は墨田川の橋上に立った。川面は黒くよどんでいた。そのよどみのなかへ、いただいてきた花束のなかから一輪をぬきとって投げこんだ。そして私は鎌倉で別れたまま、いまだに消息不明の末の妹の健在を願った。橋上に立つと、目の前に思い出多い浅草の松屋のネオンが、やわらかな光を放ってまたたいていた。
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