平成17年(2005年)8月1日
「戦犯」生存者は名誉回復
東京裁判の起訴状で、二十八人のA級戦犯は「昭和三年から二十年に至るまでの期間において、共通の計画、または共同謀議の立案または実行に指導者、教唆者、または共犯者として参画した」とされたが、実際には互いに一面識もない者同士もいた。A級戦犯の人選は「日本人から見ても、そんなに非常識な線ではなかった」 (現代史家の秦郁彦氏)とされるが、裁いた側の評価も量刑などをめぐって割れている。

 法廷で一切の弁明を行わず、文官でただ一人、死刑となった広田弘毅元首相については判決後、助命を求める著名運動が起こり、十万を超える著名が集まった。 オランダ代表のローリング判事は「中国側の要求で、広田は『南京虐殺』と日本側の不法行為に責任ありとして裁判に
かけられ、死刑判決を受けた。私は、広田は『南京虐殺』に責任ありとは思わない。生じたことを変え得る立場ではなかった」と述べている。

 キーナン首席検事ですら「松井石根(陸軍大将)、広田の死刑は不当だ」と述べている。キーナン検事は元駐ソ大使で、ソ連代表団の強い要求で起訴された重光葵元外相についても「私は重光氏が有罪の判決を受けたこと、さらに彼が裁判にかけられた人々の中に含まれたこと自体に対して、深き遺憾の意を表した」と手紙に書いた。

 重光氏は釈放後、副首相兼外相となり、日本の国連復帰の場面にも立ち会った。対中戦争と対米戦争の遂行に積極的に従事したとして罪を問われた賀屋興宣元蔵相も釈放
後、法相となって名名誉を回復した。A級戦犯容疑者とされたが不起畔となった岸信介元商工相は釈放後、首相として活躍しており、「死んで靖国神社に崇らわたA級戦犯だけを犯罪人呼ばわりするのは筋が通らない」〔自民党幹部)との指摘は根強い。開戦時と終戦時に外相を務め、米国との交捗で指導的な役割を演じたとして断罪された東郷茂徳元外相に関しても、戦犯と見なすのはおかしいとの見方は少なくない。

東郷氏は獄中で書ぎ上げた著書『時代の一面』の中で「東条内閣を以って直ちに戦争に突入すべき内閣と観察したものがあるようであるが、その見解に同意し得ざると共に少なくとも予に関する限りは戦争突入よりも戦争防止に努力するための入閣であった」と記している。