はじめに
昭和六十二年五月、かねてからの念願であった西国三十三カ所の巡礼を終えた。その後、日光に旅行した際、二荒山神社で「一宮」の名が目に留まり、次の旅の目標として諸国一宮参拝を思い立った。昭和六十二年七月から平成十年四月まで十一年がかりで、仕事の合間に六十八カ国八十七社を巡拝した。ただ、一宮については、西国・四国零場巡礼のような案内書などの情報は少なく、個々の神社関係のの資料をもとにした。手探りの旅となった。一番厄介だったのは、一国一社であるべき一宮が二つ以上ある国があり、これは何故なのか、という疑問を抱いた。この疑問がきっかけとなって、日本の神々のルーツ、それぞれの神社の成り立ちや、神社界の歴史を私なりに学んだ。
日本の宗教の根源は、山岳、海洋、河川、木石など、自然に宿る精霊を崇拝するアミニズムとされる。神社も富士山、白山など山頂に奥宮を祀るところが多い。一方、一宮には祖神の陵墓と神社が隣接するケースが多数見られる。その原形には陵墓を礼拝する「宮」から始まる渡来風習が由来すると思えるようになった。
その流れが変化して、平安時代の末法思想から始まる熊野権現信仰などの神仏習合形態となった。鎌倉時代以降、武士階級の台頭に伴い、武家の棟梁、清和源氏が氏神とする八幡宮の勢力が、全国的に広まった。その八幡の神も八幡大菩薩として仏教色が強かった。これに、室町後期、京都吉田神社から出た卜部唯一神道派が対抗していた。
江戸時代に、この神ながらの道派の本居宣長や平田胤篤等のアンシヤンレジーム、勤皇思想が大きな力を得て、明治維新・王政復古につながった。この流れをくむ皇国史観の明治新政府、神砥官が廃仏毀釈運動を進め、神仏分離を断行し、神社を政府管轄下に置いた。この国家神道政策は昭和二十年の終戦時まで続く。
この神々を巡る時代の流れは、戦後一八〇度の大転換を経て、今日に至っている。大正・昭和期の歴史学者、津田左右書博士(一八七三〜一九六一年)は神話を客観的史実でないと論証したために、裁判で不敬罪とされたが、戦後は文化勲章を受章した。正に天国と地獄であった。こういった変遷の具体例なども、諸国一宮を通じて探ってみた。
一宮の旅を続けるうちに、オヤッと思うことが多々あった。山陰出雲の神、大国主命が太平洋岸の三河一宮の主神であったように、大国主命一族、出雲系の神々が、大和朝廷発祥の地、大和一宮を含めて、中部・関東・東北地方にまたがる各一宮に祭祀されていることである。大国主命の正式名は大貴己命(オオナムチ) である。また占国之神ともいう。すなわち、国々を独占する大王である。一宮には、その土地に進出した氏族の祖神を、祭祀するところが多い。・・・・・・・・・
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