平成16年1月1日

神様に感謝 全国一の宮二廻り完拝
            滋賀県大津市       本郷 徹

 平成十年六月二十八日から平成十二年四月十八日にかけて一回目の一の宮巡拝を清ませて永い問の希望を叶えられ、感謝の気持ちで一杯です。 二回目の巡拝を平成十三年九月十一日から平成十五年四月十八日にかけて完拝しました。奇しくも完拝日が同じに成ったのも神様の導きです。
一回目は、御朱印帳・掛け軸・由緒書・神社の写真集と目的が多く、二回目は御朱印帳とお礼が目的なので事も無く巡拝出来ました。しかし大物忌神社の吹浦、蕨岡の口之宮は巡拝出来たが、鳥海山上の本殿には巡拝出来ず心残りですが完拝としました。全国一の宮巡拝を二廻りしての感想は、二回とも無事故で、しかも全て御朱印帳に直接、御朱印が頂けました。
 御朱印帳を見ると、二回目はクルーフ(地方別、海道別)毎に巡拝して合理的だなと思った。また、御朱印帳を見て再認識させられたのが、00の国一の宮との朱印が押されて無い神社が有り、自分なりに各時代の権力者との関わりを感じました。何処の一の宮でも近くで場所を尋ねると神社名より「00さんなら次の信号を右に行った所だよ」と、地域に溶け込んで親しみが感じる答えが返り嬉しかった。

 二回目は『全国一の宮御朱印帳』をもつ人を見かけた。この御朱印帳を一の宮に示すと一目で理解して頂き巡拝会のご努力が感じられた。また無人神社の社務所には、関係個所の電話先及び地図が有り大変有難かった。二回の一の宮巡拝中、特に三人の宮司さんに感じた事を紹介します。

志摩国一の宮伊射波神社

 一回目の巡拝のときは、五十センチ程の畦道を行きました。その後、老夫婦の中村文雄宮司と、氏子の皆さんのご努力で、約二メートル(車は通行止)程の道になり、参拝しやすくなりました。本殿も新しく立て替えられ、神様に尽す御努力にただただ頭の下がる思いで一杯です。伊勢神宮に近く、よく参拝しますが、中村宮司のように神社を大切に守って御努力されている関
係者がおられるから、巡拝者が気持ちよく巡拝出来る、有り難さを忘れてはならないことです。

壱岐国一の宮天手長男神社一回目の巡拝の時、故原川宮司の思い出です。予約していたので神社で待っていて下さいました。御朱印帳に御朱印をいただいた後、大神様に神拝詞でお祈りしていると、天手長男神社のお札を持って来られ、社殿の事で、自分の責任のように嘆いておられた姿が思いだされます。天手長男神社のお札をl年間自宅の神棚でおまつりしたので思い出深く感謝しております。 平成十七年に社殿が改装されるようで無事竣工される事をお祈りすると共に、会報に賛同
金の振込先を掲載されるように希望します。

伊勢国一の宮棒大神社
 故山本行隆宮司は、関係者を通じて、全国一の宮巡拝会について詳しく教えていただきました。その上御朱印帳の試作品を頂き、私に全国一の宮巡拝の楽しみを与えて下さった恩人です。 近くですので毎年何回かお参りしますが、何時も大勢の人が参拝されています。昔からこんな立派な神社かと思っていたら、織田信長に神社を焼き討ちされ、社家である宮司は、修行をされて、寂れていた神社を一代で今日の立派な神社にされたと聞き、ただただ頭の下がる思いです。
 次に、全国lの宮について、ひとつ私の夢を申しますと羽後国(秋田県)と江戸(東京都)に新一の宮が有ったら全ての国に一の宮が有る事になるのですが…正夢に成る事を祈ります。
一の宮神社巡拝の魅力益々取りつかれ、一生の楽しみにする事を心に誓い、全国一の宮巡拝会目標の百万人達成が早やからん事を祈りつつ、また私の二回 の巡拝が完拝出来たのも国々 の一の宮大神様の御加護の賜物 と感謝し全国一の宮巡拝会の一の宮百万人達成と繁栄を祈っ ております。

書籍紹介 神道感謝のこころ 葉室 頼昭著
 言い訳をすることが当然のことにようになってしまったいまの世の中で、「感謝」という気持が
薄らいでしまったのは、日本の伝統を受継ぎ、子どもに伝えようとする「いのち」であり、「いの
ち」の継承であった。
 伝統や誇りというものを受継いでこそ、今あるのというのに、すべてを理屈で考え、目に見え
ないものを信じようとしないことが進歩発展であり、ものの外面だけを追い求め、それが科学
的だという発想は、戦後のアメリカの影響であり物質第一主義に変ってしまった。
 日本には、世界の人たちには見られない山や森の自然の中にご鎮座されている神々と共生し
て生きてきた。以来、生きている鎮守の森を守り、神が宿るところとしてきた。
 それは縄文時代から約二万も祖先たちが伝えてきた。途中で仏教が伝来すると、仏も習合さ
れて、美しい日本人の精神世界を形成してきたのである。春日大社の葉室宮司が神道に関する
本を数多く出版され、本欄で紹介してきた中で、本書は気軽に読めて心に深く感動をあたえ
る。見えない力に動かされ、生かされていることが、一の宮巡拝をつづけている人には痛いくらい
わかる本である。
 「感謝」ができるこころとは、己を虚心、無にしなければ。出ないし湧いてこない。頭で考える
ものではなく体のシソから、にじみでる。生きているのではなく、生かされていることを知った時
の有難さ、涙がこぽれる感動を味わった人に味わえる五十四話である。(春秋社千二百円税別)