念頭にあたり 産経新聞H25.1,1

幼児性と画一性脱し強い国家に 作家 曽野綾子

人間の個性というものは、その人の持って生まれた貴重なDNAと、長い年月の間に培われたやむを得ない生活の重みからできた性癖との、相乗作用で生まれたもので、年が新たまったからといって急に変わるものでもない。新年になったからといって自己改革がでもちろんきないのは勿論、社会が目に見えて良くなるのでもないと私は思い込んでいる。

しかし政治の舵取りは、そのような惰性を越えてあるべきものだろうし、個人は国家の指導などをあてにすることなく、真理の奥深い潮流の中でより複雑な人間性を目指して、独自に自己改造を闘い続けるほかはない。

戦後教育と理想論への迎合

現在の日本人は、本質的に優秀な人ぴとなのに、見るも無残な幼児性に冒されている。元々能力のない人たちなら、幼児的であっても仕方がない。しかし私から見ると、日本人は実に知能も道徳性も高い人たちなのに、その幼さは病的というほかはない。

その理由はいくつか思い当たるのだが、戦後の日本人を大きくダメにした日教組的教育が人間というものの現実を正視し把握しなかったのと、戦争中の日本人の生き方を鋭く批判したはずのマスコミが実は勇気がなく、無難な理想論に迎合して、そうでないものに対して思想弾圧までしたところにあるだろう、という気はしている。

教育が受験に有効な知識偏重に陥り、人間とはいかなるものか、いかにあるべきか、という認識を怠ったので、若者たちは同じ型で抜いたクッキーのように、同じ精神の傾向を有し、同じような判断をすることをよしとするようになるのも当然のことであろう。

人間の個性はDNAによって崇高なばかりに違っているのだから、他人と同じような生き方をしたいとか、できるとか考える時に、既に無理も嘘も生じているのである。その最も単純な形を見せたのが表現の幼児化である。お先棒を担いだのはマスコミであった。

〈反・卒・脱〉原発の矛盾

現在のマスコミ、主にテレビは、人間社会の実態を伝えるという厳しく辛い作業からどんどん離れて、架空世界を作ることに狂奔している。子供の数は減っているというのに、番組上は子供番組じみた表現がどんどん増える。子供向きを装えば、道徳的非難を受けないで済むからだろう。どの場面にもマンガのキャラクターのようなものが使われ、やたらに着ぐるみが登場する。立派な大人のアナ
ウンサーたちが、番組の中で一斉に、昔は子供しかしなかったお遊戯風のジェスチャーをして恥ずかしくないらしい。

画一性という病状はマスコミ一般に現れている。一つの週刊誌を見れば、ああこの雑誌は「〈反・卒・脱〉原発」の線で売っているのだなということは即座にわかるから、このごろ私はその雑誌の編
集者たちを困らせないようにしている。

「〈反・卒・脱〉原発」は、それだけで最近は最も簡単明瞭に、世間の人気をとり、選挙の票を集め、雑誌や新聞の売り上げを増やし、進歩的文化人と見なされる魔法の言葉になった。読者も視聴者も、「〈反・卒・脱〉原発」,さえ唱えれば、自分が人権と平和を重んじるいい人間であることの保証を受けたような気になれるという便利なものである。

しかし現実はそんな単純なものではない。実に多くの日本人が、(私も含めて)できれば原発なしで暮らしたいと明らかに思っているのだ。しかし過去にもそれができなかった冷厳な現実があった。

「もうダムは要らない」「京都議定書を守らねはならない」と言い続けたのは誰だったのか。この二つの言葉でも、水力発電も無理なら、火力発電を作るにもブレーキがかかった心理の背景がわかる。

「子供大人」が増えすぎた
一ついいことをしようと思うと、必ず関連して不都合と苦悩が出て来る。そうした矛盾がわからないことを私は幼児化と言い、それが国民的に賢いはずの日本人を蝕むのを胸を痛めて見ている。

人生には、完全に善である存在もなければ、悪そのものという人もいない。この矛盾に苦悩し、解決に向かうのが大人の魂であり、勇気というものの証しである。しあるかし子供は自分の都合だけ、或いは、ものごとの一面しか見ない。そうした「子供大人」が、今、日本には増えすぎている。

日本の教育はもっと哲学的に深くならねばならない。「皆いい子」ではなく、「人間は皆平等でもない」という現実を、姿勢を正して教え、その解決に向かって働ける勇気のある人を作らねばならない。その勇気こそが、個人の運命を「想定外」に大きく明るく改変しうる力なのである。

人間も物も、すべて善と悪、賢と愚を合わせ持った存在なのだ。善だけを持つ存在は神しかなく、悪だけを持つ存在として悪魔という概念ができた。この中間に生きる人間の二面性を理解できる日本人を作れば、日本は必ず精神的に強い国家になるだろう。(そのあやこ)