納得・・・大賛成(産経新聞:H25.5.1)
曽野綾子の 透明な歳月の光 閣僚の靖国参拝
戦死者追悼は人としで当然

総理や閣僚、国会議員などが、靖国参拝をすることの「人としての当然」を改めて書く。政治家の中には、無神論者もいるだろう。他宗教の聖地や祈りの場には、一切足を踏み入れないという宗教の信者もいるだろう。そういう人たぢは、日本では当然靖国に参らない自由がある。

しかしわが国には、すべての死者を悼み、過去に遡(さかのぼ)ってその人々から受け継いできた命の継続の上にこの私があると考え、死者を大事に思うという習慣があり、それは多くの人々に支持されている。

諸外国にもそれと似た習慣がある。だからわが国の総理がアメリカを訪問してアーリントン墓地を訪れて戦死者に花輪を捧げ、それを友好を願う国際礼儀として承認するならば、自国の戦死者を祭る墓所に参るのも当然だろう。その場所が日本では靖国神社なのだ。

村を守ってくれる神さまを鎮守さまとして村人が承認するのと同じ心理である。韓国も、日本の総理や政治家の靖国参拝を非難している。韓国には非常に多くのキリスト教徒がいると聞いているが、その人たちは、聖書を読まないのだろうか。

聖書の「ルカによる福音書」の6・37には「人を裁くな」と明記されている。旧約の「申命記」1・17には、「人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである」という強い表現もある。

靖国には、日本を戦争に導いたとされる軍の指導者や、残虐行為に加担したか少なくとも止めなかったといわれる数千人、数万人の軍人も祭られているだろう。しかしその実情は、戦乱のどさくさに紛れて正確にはわからない。だから聖書は、他者に対する根本的な裁きは神に任せることだとして人間が裁くのを戒めているのである。

靖国に祭られている絶対多数の戦死者は、祖国を守るためにやむなく死んでいった普通の青年たちである。恐らく政治家も多くの国民もその人たちを悼むために靖国に参るのだ。人間として日本では普通の行為である。むしろ靖国に参る人たちほど、残酷な戦争を忌避している。

中国も今回の議員団の靖国参拝を批判した。中国は共産党一党独裁の国で多分魂を信じないのだろうから、戦死者を悼まないのだろう。それはそれで筋が通っているが、私はそういう冷たい国に生まれなくて幸せだったと思う。

4月23日の毎日新聞社説は「閣僚参拝は無神経だ」という論説を述べた。まだこの新聞は国際政治の無難な行為だけを望んでいる。自国民だけでなく、他国民の幸せや平和を守るのは当然だ。しかし今まで国際社会において、自らの哲学と信念を勇気をもって静かに表すことがなかったからこそ、日本が軽視されてきたのを、まだこの新聞はわからないのだろうか。そういう点で諸外国は、実に冷酷なまでに、他国の政治家の人間性と実力を観察しているものなのである。