土曜日に書く 2013.3.23 産経新聞 会津の苦難が光を放つ 厳しかった冬がうそのように、例年にない早さで桜前線が北上している。東京もこの週末が満開になりそうだ。桜といえば、今年はNHK大河乱ドラマ「八重の桜」が話題になっている。幕末の会津藩(福島県)がたどった苦難の歴史の中で、けなげに生き抜いた山本(新島)八重がヒロインだ。 「八重の桜」が咲く春に 京都市左京区、浄土宗大本山・金戒光明寺(黒谷)の広い境内に、「会津藩殉難者墓地」と呼ばれる一画がある。規格化された石の墓標が立ち並ぶ空間には、粛然とした気配が漂っている。文久2(1862)年12月、会津藩主・松平容保かたもりが京都守護職として上洛以来、鳥羽伏見の戦いまでの約5年間に命を落とした藩士ら約370人の墓である。 ドラマでも放送されたように、会津藩は維新動乱のるつぼとなった京都の治安を回復するため、千人を超える部隊を駐屯させた。その本陣(宿営地)とされたのが、黒谷であった。最初は「京都の守り神」と歓迎されていたが、寄せ集めの武力集団・新選組が池田屋事件などを起こすようになると、周囲の見る目が変わってきた。 薩摩藩と結んで宮中クーデターを起こし、尊穣急進派である長州藩勢力を京都から一掃した。そのため、長州からは「会奸(かいかん)」と目の敵にされた。このときの恨みが、戊辰戦争での過酷な会津処分につながってゆく。 命がけだったにもかかわらず、報われない損な仕事。会津藩はなぜ、そのような役回りを引き受けたのだろ。理由は藩祖・保科(ほしな)正之が徳川家光の異母弟で、「将軍家への忠勤」を藩是としていたからである。だが、藩士の京への移動や駐屯、武器や武具の整備などには膨大な費用がかかる。 それでなくとも藩の財政は火の車だった。重臣たちは「薪を負って火を防いさぐようなもの」と諌めたが、容保は聞かなかった。27歳と若く、美濃高須藩からの養子だったことや将軍後見職の一橋(徳川)慶喜とも姻戚関係にあったため、受けざるをえなかっだのである。 胸を打つ会津人の叫び 鳥羽伏見の戦いで「賊軍」となった藩士たちは、会津に落ちのびた。頼みの慶喜は江戸で新政府に恭順の意を示し、容保らを見捨てた。見かねた東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」をつくり、会津赦免を嘆願した。しかし、長州などを中心とした新政府は許さない。 慶応4(1863)8月23日、容保ら5千の兵が籠る鶴ヶ城は約3万の新政府軍に取り囲まれた。「幕末のジャンウダルク」こと、山本八重が銃を取って戦ったのはこの寵城戦である。白虎隊の少年兵士の悲劇もあり、城は9月22日に落ちた。 この動乱を生き抜いた人物の手記『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(中公新書)が昭和46年の出版以来、版を重ね、約20万部を売る隠れたベストセラーとなっている。 「ならぬことはならぬ」 柴五郎(1859〜1945年)は陸軍大将にまでなった人物だが、280石取りの武士の五男で、10歳のとき会津戦争を迎えた。父や兄は城に寵もり、祖母と母、姉と7歳の妹の女性4人は自害して果てた。 会津藩23万石は下北半島で、斗南藩3万石として存続を許された。しかし、実収はわずか7千石。柴父子ら多くの藩士が移住したが、飢えと寒さのため苦しんだ。遺書には、死んだ犬の肉を分け合って食べたエピソードなどがつづられて胸を打つ。 向学心に燃えて東京に出たものの知人の家を渡り歩き、下僕として身を養った。明治6(1873)年、募集の始まった陸軍幼年学校に合格でき、立身の道を歩み出すことができたのである。 「時移りて薩長の狼籍者(ろうぜきもの)も、いまは苔ろうぜきむす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すあたること能わざるなり」 80歳を超えた柴は、遺書の中でこう書く。明治10(1877)年に起きた西南戦争では、多くの旧会津藩士が政府軍として参加し、積年の恨みを晴らしたことは知られる通りである。 容保らの奮闘記『京都守護職始末』を執筆した陸軍少将、山川浩や東大総長となった弟の山川健次郎ら、柴以外にも「会津落城の悲劇」をバネに明治期を生き抜いた会津人は少なくない。 「ならぬことはならぬものです」という藩校日新館の「什の捷」はいま、現代人の心に響き始 めている。会津の苦難が光を放つようになったということだろう。(わたなぺひろあき) |