な民族ではなかったはずだ。それがいつからかくも情けない態様になってしまったのだろうか。それ以前に、果たして政治家や役人だけでなく、日本国民自身がこの国をかけがえのないものと想っているのだろうか。ごく限られた人間だけが己のみの意思で拳を握り締めているだけでは、国家としての確かな大きな動きとはなり得まいに。
「垂直の情念」なき靖国議論の不毛
私は毎年敗戦の日に靖国神社に参拝に赴くが、昨年(平成二十六年)の靖国神社への人の出は異常だった。老若男女あれほど多くの人たちが靖国の境内にあふれていたのをかつて目にしたことがない。あの光景はこの今、国民が等しく抱いている国家民族への危機感の表れに違いないと思う。我々が生きて住むこの国が歴然として傾きつつあるのを感じる者たちがこの国の安寧、自らと家族子孫の安寧を願って縄ろうとする時、所詮赴く所は先祖の墓、国家民族の護持のためにそれを願って命を捧げた者たちの祀られた靖国神社以外にありはしまいに。
その靖国神社への参拝を論難する者は、その問題点や歴史すら知らぬことが少なくない。論点の主なものを挙げれば、合祀されたA級戦犯の靖国における資格の問題、ひいては日本を野蛮な犯罪国家と決めつけた東京裁判の非合法性だが、ならば論難しようとする人たちは、あの裁判が人間の歴史を背景に考えた時、妥当なものと信じているのだろうか。次いでは信教の自由と政教分離の原則を謳った憲法との兼ね合いということになる。事の淵源ともいえる東京裁判についてはすでに述べた通りだ。
靖国神社に祀られているのは、我が国の歴史において「国靖かれ」と願って蜷れた者たちだ。明治二年、明治維新時の戊辰戦争で戦死した兵士たちの霊を慰めるために創建されて以来、日清戦争や日露戦争、大東亜戦争の戦死者のほか、吉田松陰や坂本龍馬、高杉晋作ら明治国家の礎として倒れた幕末の志士たちも合祀され、ご祭神の数は二百四十六万六千余柱に上る。遺骨や位牌は存在しない。祀られているのは志士や軍人ばかりでなく、軍の命令でその場を離れることが出来ずに亡くなった人たちも多く含まれている。
たとえば不可侵条約を一方的に破ったソ連軍の侵入後も最後まで電話交換手として職務を尽くした樺太の殉難乙女たち、沖縄戦で亡くなった「ひめゆり部隊」の女子学生、沖縄から疎開先の鹿児島に向かう途中に米潜水艦に撃沈され死亡した対馬丸の小学生、従軍看護婦らも祀られている。つまり、戦争における死者に対する遺された者の情念の象徴として靖国はあるのだ。こうした死者と我々との関わりは、現実を超えた、いわば観念におけるものである限り必然的に宗教の様相を帯びてもくる。それを国家的行為として普遍性あるものにするために、出来る限り宗教色を省こうとする意向も当然あり得よう。しかし靖国の性格が宗教でしかないというのは、日本における神道の意味合いを理解せぬ論でしかない。
日本に普遍しているアニミズムこそが神道の本質であって、その汎神論はいろいろな物事、事象に対する人間としての畏敬の念を表象しているのであり、この風土とあいまって日本独特の融通無碍な価値観を生み出してきた。それが我が国の文明と文化の発展にいかに寄与してきたことか。
戦後、靖国神社に現職の総理が参拝するのはけっして珍しいことではなかった。少なくとも昭和六十年に戦後政治の総決算を掲げた中曽根康弘総理が八月十五日に公式参拝を行って、それが申韓の反発を受けるまでとくに海外で問題視されもしなかった。「靖国」問題捻、日本人にとってはその「垂直の情念」をどう認識するかということである。根本を言えばこの感覚を抜きに何を論じても意味はないのだ。愛国心であれ、国靖かれという思いであれ、それらは今、水平的に日本に存在しているわけではない。長い歴史のなかで連綿と紡がれてきた日本人の意識の総和としてある。礎として艶れていった死者の存在抜きに、今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決してはなるまいに。
その慮りと畏怖が今の日本人にはなく、ある種の畏れの感覚を失うことがいかに致命的なことかを逆に今の日本は体現しつつある。また、「靖国」以前に総じて「死者の不在」ということを感じざるを得ない。今の日本社会には死者の居場所がほとんどない。それぞれの家庭を振り返ってみればよくわかる。仏壇なり、神棚なり、あるいは壁に掛けた写真でもよい、死者たち、すなわち自分たちの父や母、じいさんやばあさん、ひいじいさんやひいばあさんの占めている場所がだんだんなくなってきている。核家族が当たり前となって、家の中で身内の死を看取ることもない。死は病院の中にしか存在せず、家の中には生者しかいない。生きている人間しか存在しないことになっている今の社会では、「垂直の情念」などといっても具体的に何のことかわかるまい。
死者を身近に感じるとはどういうことか。それがまったく私的な感覚でありながら、愛国心であれ、国靖かれと願う思いであれ、そうしたとた一つの普遍に広がっていくよすがとなり得ることも理解出来まい。ここでいくら讐えをかざして説明してみたところで、それがどれほど効果のあることかはわからないが、ただ自分の身に起こったことを讐えに引いて言うしかない。
「生きている死者」による加護
私は若い頃、極めて乱暴なドライバーの一人だった。モータリーゼイションが今のように盛んになる前だが、当時はまだ珍しかったスポーツカー・クラブをつくって、いろいろなラリーを催したりもした。東京から軽井沢の仲間の別荘まで、ありとあらゆる交通違反をしてでも誰が最短時間で走り切れるかなどという、今警察が聞いたら目を剥くようなアンダーグラウンドのレースまでしたものだった。その頃は最先端を行く風俗だったから識者の問では密かに評判になっていて、昭和三十七年鈴鹿に日本で初めてのカーレースのためのサーキットが出来て日本グランプリが催された時、トヨタのある親しい重役から何tだったかの車に乗って出場してくれまいかという依頼まであった。
しかしその時、私ははっきりそれを断った。その時の返事の言葉を今でも覚えている。「私はつい最近、車の運転については卒業してしまったんです。もう一年早かったら引き受けていたかも知れませんがね」ン相手は怪訴そうな顔で頷くしかなかったが、体私に何が起きたのか。あるものにも書いたが、実はそんな依頼を受ける半年ほど前のある日、逗子の自宅から愛用していたトライアンフのTR3を飛ばして東京に飲みに出かける途中得難い経験をしたのだ。
第二京浜を飛ばしに飛ばして、前を行く車という車をきわどい運転でごぼう抜きにして川崎から東京に入った頃、前に抜いたどこかのタクシーがまた懸命に追いついてきた。何とか一度私を抜いたのをまた抜き返してそのまま走り去ったら行く先のどこかのガードが修理中で車線が制限されていて、仕方なしに列に並んで徐行していた私の横へ、またまた先刻の件のタクシーが追いついてきて並んだのだ。そのまま私の前に割り込むのかと睨みつけたら、そのタクシーの運転手が窓を開けて身を乗り出し、私に向かって、「いやあ、あんたは運転がうまいねえ。私もこの商売は長いが、今まであんたみたいに運転のうまい人を見たことがないな」
しげしげ私を眺め直して一人頷くと、そのまま反転してどこかへ走り去っていった。年の頃四十前の働き盛りの、その道のプロとしてもしたたかな顔つきの男だったが、それだけを告げに私を追いかけてきて言葉を返す暇もなくそのまま消えてしまった相手に、妙な夢を見たような気分で首を傾げながら、「なんだ、あいつ」独り言でつぶやいて、そのガードを過ぎてまた精一杯走り直そうとギアを入れ直した時、突然私はさっきのタクシーの運転手が実は何だったのか、誰だったのかに気づいた。
というよりそう感じた時、自然に手が伸びてギアレバーを握り直し、そのまま減速した車を道路の脇に寄せていた。「ああ、あれは親父だったんだな。親父が見かねて、馬鹿なことをするなといって、あんな格好をしてやってきたんだ」自分を諭すように思い直し、何かに向かって応えるように一人頷いていた。その瞬間から私の運転は安全で常識的なものになった。何だ、たかがそれだけのことかと言われるかも知れないが、そのお蔭で私はトヨタの依頼を何の未練もなく断ったし、以後力ーレースなるものには愚物が落ちたように関心がなくなった。その後他のもっと危険な遊びに手を出して大怪我をしたり死ぬか生きるかの目にも遭いはしたが、少なくとも市井にありふれた車での危険からは身を守ることが出来たと言える。つまりあれは、私の人生へのある大きな加護だったのだ。
これはいかにも個人的な挿話で、私と亡くなった私の父との限定的な関わりでしかない。私がそうと感じなければ何の意味もなさない話だ。ただ私にとって父は、「生きている死者」であり、有形無形にそれはDNAとして、父の情念なり志なりが、私に染み込んでいるのぽ確かなことなのだという実感である。
時空を超えた巨きな鎖の輪に繋がる実感
あの時なぜ私は、あの出来事についてあんな風に感じとったのか。つまりそんな素養のようなものがいつの間にか培われていて、私の体の内にあったのかと思う。不可知なものへの畏れ、あるいは想像力、かつては教養の一切としても。誰しも子供の頃、とくに自我が形成されていく思春期には、夜空を仰いで遠い星や星雲を眺めながらこの宇宙の中に今こうして生を得ている自分とは、自分の存在とは一体何なのであろうとふと考えたことがあるだろう。宇宙という膨大な空間の中に、あそこからこの地球まであの星雲の光が実は何万、いや何億年もかかって届くという隔たりの彼方にある事物を、この今という瞬間に仰いで眺めている自分という存在のはかなさ、不思議さに打たれたことのなかった人はいないと思う。
私もまた誰もと同じように子供の頃、夏の庭で夜空の星を仰ぎ、自分がひたされている時間と空間の不思議さ、その中に今こうして身を置いている自分なるものの存在の不思議さに神秘を感じたものだった。ただその時、一緒に並んで庭の椅予に座って談笑していた父や母、そして弟をふと眺めなおしながら、今在るこの肉親たちと自分の関わりというものは、やがては父や母が私より先に死んでいき、その後またやがて私自身も死んでいくといった、ほんのわずかの聞だけの時間と存在の重なり合いだけなのだろうかとふと、しみじみ思った。そして、いやけっしてそうではあるまいに、そんなことだけで私も父も母も弟もこの世に生まれてき、今こうしているはずではないと、ただ強く思ったものだ。こうした感覚は、今生きている人間の小ささ、その存在の危うさを覚らせるものだが、・・・・・・・・・・・・・・続く
情報源=歴史の十字路に立って 石原慎太郎 PHP
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