文化・・・産経新聞H22('10)8.30 月
                
サンデル教授、安田講堂で「知の興奮」
                      東大 白熱教室


救命ボート上の飢えた漂流者たちが、死にかけた仲間の1人を殺して食べるのは許されるのか。貧富の格差を縮めるために高所得者の富を奪うのは、道徳的に正しいことなのか!。正義や道徳をテーマにした哲学の命題を、現代の身近な問題に引きつけて語る米ハーバード大のマイケル・サンデル教授(57)の特別講義が25日、東京・本郷の東京大学で行われた。生命倫理、格差問題、戦争責任などをめぐり、参加者との白熱した議論を通じて教授が伝えようとしたものはー。(磨井慎吾)

サンデル教授は、米国の放送局が講義を番組化し、NHK教育テレビでも4月から放送され反響を呼んだ「ハーバード白熱教室」の講師。5月に発売された講義録の邦訳版『これからの「正義」の話をしょう』(早川書房・2415円)は、哲学書としては異例の約30万部のベストセラーとなっている。

今回の講義は同番組の"日本出張版"として、東大との共催の形で実現した。会場の安田講堂には東大生350人をはじめとする約1100人の聴衆が集まり、ほぼ満席の盛況ぶり。NHKによると、550人の一般視聴者枠には6183通の応募が殺到した。ハーバード大きっての人気授業として知られるサンデル教授の講義は、ユーモアを交えた対話で話を進める「ソクラテス型」だ。

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「収入の格差自体は不公正と思う?」教授が問いかけると、会場から次々と手が挙がる。問いかけは、さらに身近なものに。「イチロー選手の年俸は、日本の教師の平均年収の約400倍、オバマ米大統領の42倍。私は野球が大好きでイチローは偉大な選手だと思うが、道徳的に見て公正か。国家が課税して再分配することは正しいだろうか」

具体的な事例の提示に、議論は白熱。「自分の才能で得た財産について、自発的に寄付するのは構わないが国家が課税によって強制的に奪うのはよくない」「いや、大金持ちの収入の半分を取り上げても痛くもかゆくもないし、それで多くの貧しい人たちが幸福になる」。参加者同士が直接議論することも促しながら講義は盛り上がっていく。

最も会場が沸いたのは、家族が重い罪を犯した場合にとるべき態度から説き起こされた、世代を超えた道徳的責任をめぐる話題だ。教授は問う。現代日本の若者は、戦前日本の過ちの責任を負うべきなのか。原爆投下について、オバマ大統領は謝罪すべきなのか。

議論は分かれた。「生まれる国は選べない。自分がかかわれない話に責任を負わされるのは納得がいかない」という意見に対し、「今の世代が過去を土台にしている以上、過去の世代の過ちは今の世代が償うべきだ」とする主張がぶつかる。教授は再質問を重ねて的確に論点を整理しながら、それぞれの意見が依って立つ道徳的立場をあぶり出していく。

「正義とは何か」という問いに対し、サンデル教授は3つの答えがあるとする。1つ目は、英の功利主義哲学者、ベンサム(1748〜1832年)に代表される「最大多数の最大幸福が正義である」とする答えだ。2つ目が、独哲学者のカント(1724〜1804年)が掲げた「人間の自由な選択を尊重すること」。そして3つ目が、古代ギリシャの哲学者、アリストテレス(紀元前384〜同322年)の「何が美徳であるかを明らかにし、それをつちかうことが正義である」とする考えだ。

しかし、サンデル教授の講義は、3つのどれかが正解だとはしない。講義の主眼は、過去の哲学者が重ねた議論を参照しながら、答えが出せない問題について深く議論することにある。教授は言う。「哲学の間題は哲学者たちだけのものではなく、われわれの日常生活に存在しているのです」

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講義は前後半に分けられ、計約3時間20分。予定時間を約1時間20分も超過する盛り上がりぶり。教授は「友人は『日本人は積極的な議論ができない』と言っていたが、非常に刺激的ですばらしい議論ができた」と感想を述べた。

「知を愛する」という哲学の語源そのままに、普通の人間の生活に哲学の思考を応用する教授の講義は、日本の受講者にも、知の興奮と深い感銘を与えたようだ。終了後、降壇する教授への満場総立ちの拍手は何分も鳴りやまなかった。傍聴した記者もわれ知らず立ち上がり、手をたたいていた。「白熱教室」という名前通りの熱い討議だった。

講義の模様は10月31日と11月7日の2回に分け、NHK教育テレビで放送される予定だ。

東大で特別講義を行うマイケル・サンデル米ハーバード大教授=東京都文京区の安田講堂(NHK提供)