と思う。その柳田の考えも、朋治百年のタイムスパンの中では大勢を占めるにはいたらなかった。わずかに敗戦後の農地解放によって、その志の半ばが達せられたということではないだろうか。そう考えるとき、戦後の柳田を中心とする民俗学の活動がじつに意気盛んであったことが納得される。

☆和魂漢才と和魂洋才

だが、その民俗学が今日、溶鉱炉の火が消えたように元気がない。かれが生きていたころの、民俗社会の活気も勢いもみられない。いろいろ原因は挙げられるだろうが、要は、農地解放が実現したとたん、日本列島が都市化の波に洗われ、民俗社会そのものが全面崩壊の淵に沈んでしまったということだ。

 その上、減反政策に端を発する農業の衰退、荒廃が、さらにその勢いを加速させてしまった。そして、もしもそうであるならば、食糧生産を確保する自立農業の立ち上げが間われはじめている今日、柳田国男によつて構想された国づくりの路線があらためて見直される時代にきているともいえるのである。

 もう一つ、かれが主張してやまなかった「固有信仰」の問題がある。一その分野の記念碑的な作品、『先祖の話』は、日本人の精神基盤に鋭い光をあてた貴重な仕事だった。今日の「靖国」問題が行方の定まらぬ漂流をつづけている状況をかえりみるとき、そのようなかれの発想からも学ぶべきことはけっして少なくないのである。

 昨年は、その柳田の手になる『遠野物語』が刊行されてから百年を迎える節目の年だった。それを祝う数々の行事が各地で開催されたが、もう一つ忘れてならないのは、かれの『時代ト農政』が刊行されて百年という年でもあったことだ。その中でかれは、二宮尊徳による報徳社の運動をとりあげ、中国において朱子が説いた「社倉」およぴ西欧社会において発展した信用(産業)組合とを比較して論じていたのである。

 そこにもまた、「和魂漢才」の複眼思考、「和魂洋才」の精神的二枚腰のバネが働いていたことを思わないわけにはいかないのである。(やまおりてつお)産経新聞2011.1.3