辛亥革命秘話 孫文と梅屋庄吉 小坂文乃(梅屋庄吉曾孫)
辛亥革命は隣国中国の歴史ではあるが、日本人も深く関わっている。孫文先生は革命生活のおよそ三分の一にあたる約十年近くを日本で過ごしている。その歳月の中で孫文先生と関わりを持った日本人は三百人以上いたとも、詳細に調べ上げると千人にも上るのではないかとも言われている。
孫文先生は一八九五年の広州起義に失敗し、長い亡命生活を余議なくされるがその亡命先として、また革命運動の基地として日本に度々滞在した。孫文先生に関わった日本人は革命運動本来の目標とは異なる動機で革命を利用していたものも多く、真の意味での友人、つまり〈真朋友〉と言われる人はごくわずかであると一言われている。
民間人の立場で物心両面から孫文の革命を支え続けた〈梅屋庄吉〉はその一人としてあげられている。梅屋庄吉は一八六八(明治元)年、長崎県で生まれ、貿易商を営む家に育った。当時の長崎は江戸時代から唯一外国に開かれた港町であったことから、梅屋庄吉は小さい頃より中国人や異国の人や文化と触れ合う機会も多かったと思われる。
生来、冒険心の強い梅屋庄吉は十四歳の頃に自分の家の船に乗り、上海へ渡った。その時、梅屋庄吉が上海で目にしたものは植民地化された中国の人々が欧米人に屈辱的な生活を強いられている姿であった。日本の友入、兄弟である中国がこのような状態であってはならない…。
この時の思いがその後、孫文の革命思想に共鳴するもとになったと思われる。梅屋庄吉はその後も広くアジア各地に足跡を残している。南洋開発をめざしたり、フイリピン革命のアギナルドらとも親交を持ち、フイリピンにも行ったりしている。こうしてアジア各地で培った人脈や経験がその後、革命軍に武器・弾薬を送るなどの孫文の革命支援にも役立つことになる。
一八九五年、梅屋圧吉は写真技術を身につけ、香港で写真館を開いていた。そこに英国人ジェームス・カントリー博士が良く訪ねてきていた。孫文先生の恩師でもあり、理解者でもあるカントリー博士によって、孫文先生と梅屋庄吉は出会うことになる。二人は時の情勢について、そしてアジアの平和について、意見を同じくし、一晩中語り合ったという。
〜中日の親善、東洋の興隆、はたまた人類の平等について全く所見を同じうし、ことにこれが実現の道として、まず大中華の革命を遂行せんとする孫文先生の雄図と熱誠は甚だしく我が壮心を感激せしめ、一午のよしみ、遂に固く将来を契うに至る〜と晩年、梅屋庄吉はこの時のことを書き遺している。
そして、梅屋圧吉と孫文先生は〈君は兵を挙げよ。我は財を持って支援す〉との盟約を交わした。孫文二十九歳、庄吉二十七歳の時のことである。革命運動を画策していた孫文先生はこの時、庄吉より財政的な支援を約束され、第一次広州起義の実行に踏み切った。広州起義に失敗し、清朝政府から身柄を追われた孫文は庄吉とジェームス・カントリー博士の勧めで初めて日本の地を踏むことになる。
この時、梅屋庄吉は当時の金額で千三百ドルを孫文先生に渡している。その後、孫文先生は日本を革命運動の拠点の一つとしていくことになる。梅屋庄吉はその後、シンガポールで映画に出会い、これをビジネスとして成功させた。東京にMパテー商会という映画会社を創立、後に、日本活動写真株式会社を設立した。
当時日本は映画草創期の時代であり、庄吉は新宿大久保百人町に映画の撮影所も備えた邸宅を持った。この屋敷では革命の同志が集ったり、孫文先生と宋慶齢の結婚披露宴も行われた。孫文先生四十八歳、宋慶齢女史二十二歳の事である。この結婚は周囲が反対する中、梅屋夫人のトクが尽力した。梅屋庄吉はまた辛亥革命の地、武昌にも撮影隊を送り、当時の革命の様子をフィルムに収めている。
映画ビジネスで財を成した庄吉は革命軍に武器購入の資金調達の他、軍票の印刷、医療救護隊を現地に派遣、孫文の三民主義が説かれた同盟会の機関誌〈民報〉の発行資金を提供した。
また飛行機が戦争に使われるようになると孫文は自分の革命にも飛行機を使用したいという希望を持ち、梅屋庄吉は現在の滋賀県八日市に飛行訓練学校を設立、中国人留学生らが飛行操縦などを学んだ。
また梅屋庄吉の資金援助は宮崎滔天ら中国へ赴く日本の大陸浪人の渡航費や生活費にまで及んでいる。梅屋庄吉・トク夫妻の支援は武器などの革命支援のみならず、非常にプライベートな部分での心の支えにもなっていた。
孫文先生は梅屋庄吉の着ていた羽織に〈賢母〉と書き記している。革命の父が孫文先生であるならば、陰で資金の調達や革命の志士らの生活の面倒を見ていた梅屋庄吉は〈母〉の存在であるということであり、孫文先生と宋慶齢女史を慈母のように慈しんだ梅屋庄吉・トク夫妻の二人を顕彰するために残されたものであろう。
孫文先生の死後、日本と中国の関係は悪化していった。そのような中でも梅屋庄吉は、孫文の偉業を後世に伝えるべく奔走した。まず銅像の建設に着手した。この時梅屋庄吉によって製作され、現地に運ばれた銅像4体は、南京中山陵、広州中山大学、黄哺軍官学校、漢門国父記念館に現存する。
梅屋庄吉はまた、〈大孫文〉という映画を企画し、日本と中国双方で上映することによって互いに助け合った歴史を伝えていこうとしたが、当時、日々悪化する日中関係と経済状況の中、この映画は蒋介石による製作承認まで得ていたが未完に終わった。
梅屋圧吉は日本と中国の戦争を何としても回避させるべく奔走していた。その行動は当時の日本の情勢からすると〈売国奴〉としての扱いをうけることになり、梅屋庄吉は怪電報事件に巻き込まれ、憲兵隊に召喚された。中国の要人らとの懇意から誤解をうけたのである。梅屋自身の潔白を陳述し、釈放された。その後も梅屋庄吉は外交での日中関係の打開のため、当時の外務大臣広田弘毅に和平を進言していた。
三回目に広田との会見を行うために千葉の別荘から上京する時に倒れ、六十五歳で他界した。梅屋庄吉は〈自分が孫文の革命に関わったことは自分と孫文の盟約にて成せるなり。これを一切口外してはならず〉との遺言を残した。
梅屋庄吉はなぜ、私財のすべてをかけて孫文を支援することが出来たのであろうか。梅屋庄吉が信条にしていた言葉が、ある。
★人の価値は財産や持ち物で決まるものではない。人の価値は魂にある。
★人の世は持ちつ持たれつ諸共に助け合うこそ人の道なれ
★この手によって造られざる富は多しといえども貴むに足らず
★身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
梅屋庄吉はこの言葉を繰り返し日記に記していた。梅屋庄吉の夢であった東洋平和、人類平等の世の中を実現させるために、孫文先生の革命を成功させることこそがその道であると信じた梅屋庄吉であった。
日本と中国の国交が回復した後の一九七八年、副国家主席となっていた宋慶齢女史は梅屋庄吉の娘、千勢子を北京
に招待した。そして、その時のことを手紙でこう綴っている。
〜あなた方の訪問は私に梅屋庄吉先生とご夫人、孫中山先生と私の間の友情の記憶をよみがえらせました。この貴重な友情は時間や情勢によって消えるものでは決してなく、何事によってもこれを消せるものではありません〜
二〇〇八年、胡錦涛国家主席が十年ぶりに国家元首として日本を訪問された際に、福田康夫元首相とともに百年の月日を経た孫文と庄吉の歴史の史料をご覧になられた。胡錦涛国家主席はこれらの史料を興味深くご覧になられた後、中日友好世世代代と記帳された。
孫文先生と梅屋庄吉の友情の歴史は庄吉の遺言により、国交回復までの期間、封印された。そして人々から忘れ去られた歴史となった。私は梅屋庄吉の曾孫として、現在のように日本と隣国中国とが経済活動をはじめ、さまざまな分野で協力し、共生していく時代にこの国境を越えた友情の歴史を語りついでいきたいと思っている。
日本人そして中国の人々が温かいものを感じてくれたら、それこそが梅屋庄吉夫妻が子孫である私に残してくれた、大きな財産だと思っている。
辛亥革命とは
孫文が辛亥革命を成就させ、それを物心両面で支援した梅屋庄吉トクご夫妻の活躍振りは、小坂文乃様(梅屋庄吉の曾孫)の論文でよく分かって頂けたと思いますが、辛亥革命とは何かについて紹介します。
清朝は一六三六年に明を滅ぼし満州で建国され、一六四四年から一九一二年までの268年間中国を支配した統一王朝です。
最初は満州族と漢民族との宥和政策も順調で繁栄しました。しかし、西太后(テレビ等でお馴染み)や光緒帝の時代になると、清朝(清国)の力が弱くなり、国は疲弊しました。イギリスとのアヘン戦争(一八四〇年)に負けて植民地となり、また不平等条約を押し付けられる等、中国人は欧米人に屈辱的な扱いを受けるようになりました。
清王朝を倒し、国民主権の国家を作りたいと、孫文等を中心に、多くの有志が、王政打破のため立ち上がりました。日本留学をした有志も多く、梅屋圧吉のように、多くの日本人が中国人の苦しみを理解し、革命を物心両面で支援しました。
一八九五年から一九一一年まで合計10回武装蜂起し失敗しましたが、革命思想を中国に普及させることに役立ちました。孫文は一九一一年武漢で武装蜂起し、それに呼応して、中国南部の各省が独立を宣言して、やっと革命が成功しました。
一九一一年の干支が辛亥なので、辛亥革命と呼びます。一九一二年清の宣統帝が退任し、清国から中華民国と国名を変え、一九一二年が中華民国元年となりました。(日本では明治天皇が崩御され、大正天皇が即位した年)昨年は辛亥革命から百周年で、中国や日本の各地でいろいろな行事が実施されました。
中でも梅屋庄吉夫妻の功績については、中国政府から高い評価を受けています。(この説明は小坂文乃著「革命をプロデユースした日本人」やインターネットの記事を参考に纏めました。文責幡鉾)
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