平成28年(2016年)6月3日(金)発行 TheIkishinpou 郷十史に記録のない渡良麦谷触宇土湾で行なわれた日本潜水艦遺体収容作業について@ あまり語られていない宇土湾悲しいドキュメント三頭 (福岡市在住渡良麦谷触船越出身) 鎮守次郎 1.はじめに 昭和16年後期から17年後期にわたり、題記の日本の潜水艦が平戸島周辺海域で日本の商船と衝突し潜水艦が乗組員とともに沈没するという事故が発生した。事故発生の日時は不明です。本事故の記録については当時の海軍省関係には保存されてはいるだろうが、小生が郷土史を調査したところでは記載はない。また当時を知っていて語ってくれる人も今は故人となっていない。小生も国民学校の入学前であったため、記録するほどの能力もなかったが、たまたま我が家にこの仕事の責任者が入居された関係で、よく記憶していた。 我々が宇土湾でよく記憶しているのは、この作業と小崎漁協によるイルカ漁が二大イベントだと云ってよい。こうした小生の記憶をもとに以下にその概要を記すことにした。 2.当時昔の三島丸程度の機械船が5名程度の人達を乗せ、突然宇土湾の船着き場に着岸した。当時渡良村であったが、この人達はこの日に入港するような話など何もないようだった。そしてこの日をスタートとして毎日のように、いろいろな目的の船が、平戸方面から次から次へと、入港する日が続いた。 小生も何が始まるのかと思い、この人達に話を少しずつ聞くようになった。その話の結果が、題記の作業を行うための事前現地調査と云うことであった。その後佐世保の軍関係者と渡良村役場、宇土、船越の地元関係者との話し合いが行われ、約150人の潜水艦内に眠る海軍兵士の遺体収容作業を行うとのことで地元の協力を得たいとのことであった。 その結果、管理事務、棺作成用建屋の建設、火葬場の建設、多くの船舶係留など、作業要員約100人が、宇土、船越の地に駐屯することとなった。このため、管理、作業要員のため、今のお宮の地、川崎、川畑家の下部海側に2階建て400坪位の木造一棟と、船越の馬立様の地に一階平屋の四棟が建設された。船越の一棟は木工場や、厨房設備が設けられた。 3.不夜城と化した宇土、船越 港には発電機船も係留され、本船と各建屋や港に沿って配電設備が設けられ、発電が始まると、まだ電力会社の電気もない渡良の地にここ宇土、船越には一夜にして不夜城のごとく、電灯がともされた。 一方沈没地域からサルベージ会社のサルベージ船により、海面近くまで釣りあげられた潜水艦はトン先と赤タキの中間地域に曳行され、ここを収容場としてアンカーされた。 連絡用のボートや石炭船、燃料船など、とにかく各種船舶が港をうめた。更に本作業応援のため、地元の宇±、船越の青年部、婦人部の人達が働くことになり、一時的ではあるが賑わいをみた。ある日小生はサルベージ船で吊り上げられた潜水艦を見る機会を得た。上から見る限り潜水艦の後部の一部は欠損しているように見えた。 小生には遺体を持ち上げられるシーンは見えなかった。船城に収容された遺体は運搬船により火葬場まで運ばれ火葬された。こうした作業に約1年程度を要し、宇土、船越は半農半漁以外の収入を得たことになる。作業は一応順調であったが一度だけ、サルベージ会社の本船内で火災事故が発生したが死者は発生していない。 小生はいろんな所に興味があり、特に発電機に興味があった。朝からバージ船上の発電機室に入り係員とよくおしゃべりをしたものだ。そして配電盤についた一個の赤い電球に魅せられた。 4・作業の終了とその後遺体収容作業も終わり、その後は徐々に作業員や船舶も少なくなり地元の人達ももとの農、漁業に返っていった。唯建物は全て残され、その後は二階建ての一棟は最後まで残り、その後の壱岐駐留の陸軍の利用することとなる。船越の浜には多くの石炭の残り、針金、マニラテープなどが残され、当時これら全てが必要なものであり、村人はこれらの宝物拾いで忙しかった。 また陸だけでなく海にも多くのロープ等がゴチ網にかかり喜んだものだ。そして不夜城と化した宇土、船越も静かになり、暗い電気のない触になっていつた。この翌年私は渡良村立国民学校に入学す。(昭和18年4月)その時点はまだ日本の巨大戦艦「武蔵」「大和」は健在であった。(次号に続く) 続き・・・・。 郷土史に記録のない渡良麦谷触 宇土湾で行なわれた日本潜水艦遺体収容作業についてA あまり語られていない宇土湾悲しいドキュメント三頭 鎮守次郎 (福岡市在住渡良麦谷触船越出身) 5・宇土湾のその後の変遷 (1)宇土湾はこの収容作業後は先の建屋に壱岐守備隊の駐留する場所となり昭和19年から終戦の昭和20年8月15日まで続く。壱岐守備隊は岳の辻、黒崎の大砲を守る部隊など壱岐の各地に配置されていた。特に渡良では小学校までも軍の駐留する事態にまでもなった。 この時渡良に属する大島では中規模の高射砲の建設工事が進められ、更に宇土湾を中心に陸用舟艇の格納ドッグが8ヶ所が同時進行で進められていた。 こうした各工事を宇土に駐在する部隊を監督する立場であった。これは終戦まで続く。国民学校では男性は木剣、女性はナギナタの練習である。 (2)次に世間に知られるようになったのはイルカ漁である。戦後宇土湾にはチュージョ網がよく行なわれていた。湾内に大形のブリがチュージョと云うイワシの小魚をおって湾内深くまで来る。網元は常にチュージョの大群を見つけるように努め、発見すると、すぐさま各家庭に連絡し、網の準備にかかり、大体2隻の船に6〜7名程度(2隻では12〜14名)で網を引く。 勿論沢山ではないけれども、チュージョに大きなブリも10匹程度の漁がある。こうした中イルカの大群が郷ノ浦湾内に入って来た。終了後の結果では2OO頭は湾内に入って来たとしてよい。小崎漁協はこのため全て、他の仕事を中止し、イルカ漁に専念する。 小崎漁協所属の約30隻の漁船と捕獲用具と要員を用意して先ず全てのイルカを宇土湾内に追い込み、トン先と赤タキの間を網で防ぎ沖に逃げないようにする。次は船越サイドのシャカンダの浜で捕獲するべく、20隻程度で約10頭程度を囲みながら徐々に浜近くまで追い網の先端を陸上で曳き、イルカはいよいよ体を岩や石にひっくり返り、ここで漁師は大きな柄のついた包丁みたいなもので、一斉にイルカに飛びかかり、イルカの腹を切り開く。 イルカから大量の血が流れ、イルカは死ぬことになる。一網10頭から出る大量の血はシャカンダの渚や湾内を真っ赤に染められ広がっていく。時には体内からイルカの子どもまで出てくる。 このようなイルカ漁が200頭終了まで続けられた。シャカンダの浜(釈迦の浜)はイルカの断末魔と血の海となる。更にこの話が島内に知れ渡り、見物人が多数来て今度は畠の作物を踏みつけてしまうなど問題続出する。 このニュースが島内新聞がとりあげ、やがて日本中に知れ渡り、更に世界中のニュースとなり、日本の生物保護団体と更には世界の保護団体から強烈な非難を受ける。この結果このシャカンダの浜でのイルカ漁は行われなくなった。 海豚の慰霊碑 (3)次にシャカンダの浜が災難を受けるのは壱岐島の離島振興法の適用である。我が国には人の住む島が約6000位もある。我が国の島に対する基本的対応が決まり、全国の離島にこの国の法律を適用した。たしかに離島には大きな企業も少なく、高卒、中卒の人も島外に住みつく人も多く、昭和29年頃の5万人の人口が、今(2016)は8000人とのことである。 よって島の人達は離島振興法の適用を望むことになる。一時期壱岐の人口の産業労働者比率はこの法律に関係する土木工事等による労働比率は70%を超え、この法律がいかに壱岐島の労働者の助けになっているのが理解できる。 シャカンダの浜に象徴的な変化をもたらした設備が今(2016)も存在している。先ず、壱岐島全島の各地の港湾工事のために国の港湾工事事務所が設置された。このため農地が国に買い上げられた。この事務所は何を始めたかと云うと、シャカンダの浜の全体を占有し、しかも美しい浜の姿をすっかり変えてしまった。(次号に続く) 郷土史に記録のない渡良麦谷触 宇土湾で行なわれた日本潜水艦 遺体収容作業についてB あまり語られていない宇土湾 悲しいドキュメント三頭 鎮守次郎 (福岡市在住渡良麦谷触船越出身) このシャカンダの浜は歴史的にも有名で、一部には釈迦伝説も存在する所で渡良では立地条件がよい畠が3枚もあった。更にこの浜にはミナダコやムラサキガイ、トコブシ、セッカ、アオサ、クサビ、クロダイ、スズキ、ボラ、ミナ、ゴカイ、ミズ、メバル、アラカブなども昔は獲れ、生活を支えてくれた浜であり昭和初期の人には思い出多い場所である。 小生等東京から実家に帰ると、すぐ水中メガネとイソイリ袋をつけ、シャカンダの浜でサザエ、シリタカ、真珠ガイ等をとって家に帰り子ども達総出でミナのむき取りをしたものである。更にトバリダの磯場では我が子と海に潜り、サザエのいる場所を教えることにした。そして3人で潜り私は子どもにサザエがいる場所を教え、一度で獲ろうとせず、二度三度潜ってゆっくり手袋をはめ拾い上げるなど、サザエとその環境を教えたことである。 こうした思い出多いシャカンダの磯なのに国はどこまで地元の意見を聞いたかはわからないが多くの生物が住むシャカンダの磯を再生不能のコンクリートジャングルとなってしまった。悲しい限りである。 更に申し添えるとシャカンダとタキヤマの間にはすばらしく美しい珊瑚礁の群落があった。東西約50m南北15mの珊瑚礁である。この他には近くに3ヶ所程カセと云う珊瑚礁があった。今はこの跡形もない。おそらく珊瑚の種類は30種類は存在していたと思う。 離島振興法適用に対するダメージは言葉では言い尽くせないほど私には情けない気になる。今はどうなっているかと云うと、先ず珊瑚礁(カセ)はタキヤマが石油などの危険物埠頭工事で消えてしまった。シャカンダの浜は完全に消えケーソン工事船を繋留するための埠頭と、そこに今もケーソン工事用クレーンや補助船等数隻が繁留されて、はるか洋上からも見える、 高さ60層もあるクレーンの一部が今だ存在する。自然景観がすばらしいシャカンダ周辺は死の浜と化している。何故撤去しないのかも島の人も国のこととて誰も知らない。2年前このクレーンの側でクサビ釣りをしてみたが、何も釣れなかった。 (4)便利にはなったが、失うものは大きかった。それは海岸周辺をめぐる片側1車線の一級道路の建設である。自然海岸は完全に埋立てられ、本土並みの立派な道路が出来上がっている。正に便利の固まりである。昔小崎から麦谷経由で郷ノ浦まで行くのに県道の渡良初山線と鹿の辻の2通りの方法であったが、今はこの宇土湾沿いの一級道路を使用した方が快適でしかも早く郷ノ浦に到着する。このため船越の磯場もすっかりなくなり、便利さだけが先行してしまった。 更に宇土湾は一変してコンクリート護岸になり釣り船の係留するのみと化している。鎮守大明神だけは道路工事と同時に守られ、きれいに整備されてはいる。唯鎮守の先の磯場は我々子ども時代の唯一の夏の遊び場であり、サザエやトコブシ・シリタカを獲っては皆で獲物を比べ合ったり、体を水たまりに入れ、温めたりして過ごした場所である。 これも今はない。更にシャカンダには一本の自然の小さな川があり、海岸近くに小さなプールみたいな所で大きなメジナ(クロイオ)を10匹も獲ったことがある。これは満潮時に入り込み、干潮時に沖に出る機会をなくしたため、たまたま居たことになる。又、冬に海草のホンダワラを集積する場所や小崎の鯛網の終点でもあった。 6・おわりに 渡良麥谷触宇土湾やシャカンダ、鎮守の先等の変遷について述べてきた来た。今思うに、このシャカンダほど大変化した所は他にはないと思われる。時代とともに変遷するのはやむを得ないかもしれないが、こうした自然を失うことが、結果として島人口が半減するなど、島の将来の有り方を予測しない政策がここに来て行き詰まったと云える。 |