歴史学者たちから受けた批判

・・・ちょうど松永安左ェ門先生が数日前に京都に来られ、十二日帰京の予定であったが、博士と合うために、わざわざ延期してこの昼食会に臨席して下さることになった。松永先生は少し遅れて来られたが、昼食はすでに済まされたそうで召し上らず、ただ日本酒の盃だけを重ねつつ、博士と歓談を交わされる、その光景がほんとうに見る目にも心暖まるなごやかさで、今もありありと私の眼に浮ぶ。

博士も高齢ではあるが、松永先生から見ればまだまだ壮年であろう。年齢の話も出て、まるで親子の対話のようだった。話題
が『歴史の研究』の翻訳事業に及んだことはもちろんである。・・・

第11回配本1968.5:歴史の研究11・滞日五週間のトインビー博士 荒木俊馬から」Pー4から」


                   二、
以上の設問に対する答えは、かれ自身がかれの大著の結語において提示している。まず第一に、かれが成人に達して以後に、二度の世界大戦を経験した西欧先進国における世代に属している事情である。すなわち、破竹の勢いで前進を続けるかにみえた西欧文明の前途に無限の期待をかけていたかれの父親たちの世代の夢が、突如として崩壊し、「交友関係によって結ばれていた八つの大国が、どちらも西ヨーロッパの外にある二つの大国だけになってしまった」悲劇を身をもって体験した世代に属している事情があげられる。

第二に、かれが知識階級の出身で、オックスフーオード大学卒菜までの期間に、すでにラテン語を十五年、ギリシア語を十二年も学んで、古代ギリシア・ローマ文明についての知識と関心をもっていた事情があげられる。こうして、自ら語るところによれば、かれは「一九一四年の戦争勃発を経験すると、それが紀元前四三一年の戦争勃発がツキジデスにもたらした経験と同一であることを痛感せずにはいられなかった」のであった。

第三に、かれがイギリス人であったという事情があげられる。すなわちかれは、通常のドイツの歴史家のように、「歴史の一回性」を信じるランケ以来の実証主義的歴史学派の伝統にひたされていなかった。またかれは、ヨーロッパ大陸の多くの歴史家のように、歴史というものがその土台である生産関係の変化によって必然的に推移するとみるマルクス主義的唯物史観の影響を受けていなかった。そしてイギリスには元来、古典教育の長い伝統からして、歴史というものの意義が、現在および将来の人間の生き方に対する教訓にあるとみなす伝統がつよかった。

こうしてかれは、前記したように、一九一四年の世界大戦がヨーロッパ文明にもたらした経験と、紀元前四三一年のプロポ
ネソス戦争がギリシア文明にもたらした経験とが「同一であると痛感した」とき、「紀元一九一四年と紀元前四三一年という
                     
二つの年代は、哲学的にみて同時代とみなすぺき理由がある」(傍点は筆者)とみなすことができたのである。すなわち「かれ
は『どうして、あのことから、このことが生じたのか』という歴史家にとっての基本的な設問がなされると、この間はほとん
どつねに、かれの頭の中では、『どうしてギリシアの文明と同じょうに、西欧文明の歴史においても、あのことからこのこと
が生じたのか』という形をとった。かれはこのようにして、歴史を二つの項をもった比較とみなすようになった。」

しかしこのように歴史を「双眼」によってみることに決意したかぎり、二十世紀の初頭に歴史研究に志したものは、「双眼」にとどまっていることは不可能であった。なぜならば十九世紀の初頭から隆盛に向った研究と発掘による古い文明に対する知識が、すなわち十一にのぼる失われ、忘れられた文明・・・旧世界ではエジプト、バビロン、スメル、ミノス、ヒッタイトの各文明、それにインダス文明と古代中国文明、新大陸ではマヤ、ユカテク、メキシコ、アンデスの各文明・・・の知識がすでにかれの面前に横たわっていたからにほかならない。

こうしてかれは、古代ギリシアと現代西欧が「哲学的にみて同時代である」とみなした以上、「双眼」的比較を超えて、いわば「複眼」的な比較文明史学に入らざるをえなくなったのである。そして、かれの比較文明への関心が、世界大戦によって人びとの眼に顕在化した西欧文明の衰退への徽候であったかぎり、かれの比較文化史学は、単なる事実の究明のみをもって目的とする純粋な歴史学とは別個のものとならざるをえなかった。

 すなわち、かれは西欧文明の将来にロをあけているかにみえる「死の門」とは何か、西欧人は果たしてその門をくぐらねばならないのか、西欧文明のみはその門を回避することはできないのであろうか、このような設問に答えを見い出そうとして、すでに死滅している多くの文明を研究しょぅと試みたのである。かれのことばにょると、「かつて隆盛をきわめた多くの文明が死を通過して姿を消していった。この『死の門』とは何か。この設問に答えるために、著者は文明の衰退と解体の研究を行い、次いで補足的に文明の発生と成長の研究を行った。この『歴史の研究』は、以上のようにして成立したのである。」 かれは、西欧文明の生の可能性をさぐるために、死せる諸文明、あるいは死なないまでもすでに衰退に向いつつある諸文明 の研究を行ったのである。

 そのために、かれの「歴史」の「研究」は、通常の意味の歴史家からさまざまな批判をこうむらざるをえなかった。まず、かれが比較研究した二十数個にも及ぶ各文明について、その一つ、あるいは一つのうちの小部分の研究を一生の課題としている専門家たちが、かれの記述した多くの事実が誤りである点を攻撃した。ある人びとは、かれの事実誤釈がはじめからかれの念頭に存在する先入観に合わせて裁断された歪曲であると攻撃した。さらにある人びとは、人類が数千年の年月のうちに生みだした各種の文明が、そもそもそれらを同列に並直してなされるような比較の対象となりうるものかどうかを疑った。

 しかし、にもかかわらず明確な事実は、かれに対する批判者たちのだれよりも、トインビーなる「無謀」な「歴史家」が世界的に著名であることである。すなわち、全世界の物を考える部類の人びとが、たとえかれの大著はかならずしも読んでいないとしても、かれの研究とその結論に関心をもっているということである。その理由は、かれが歴史研究に入った問題意識が、西欧の人びとの、いないまや西欧化した世界の大部分の人びとの問題意識であるからにほかならない。すなわちかれの「歴史」は単なる「事実」の集績ではなく、「啓示」なのである。

 人びとはかれが集績した事実・・・それらのうちの若干は誤っているであろう・・・にではなく、そのような事実を集め、そして解釈したかれの「使命感」に引きつけられたのである。人間というものは、まったく愚かな砂上の楼閣にいつまでも感心するほど愚かなものではないのである。パークがのぺたように、「たとえ個々の人間は愚かであるとしても、人間は賢明なのである」したがって、多くの人びとがかれの所説に耳をかたむけたということは、かれの集めた事実と解釈とが、個々の点はともかく、全体としてはそれほど的はずれではないことを示しているのであも。イギリスの大辞典『エルサイクロぺディア・ブリタニカ』の項書いた歴史家は、人類の諸文化の比較という試みは試みられてしかるぺき価値をもつものであり、トインビーの業績はたとえ専門家が指摘ずるような誤りがあるとはいえ、価値ある目標に対するトライヤルとして有意義であるとの判定を下している。

 こうして新しいタイブの「歴史家」トインビーの現代世界での出現は、大西洋を横断したコロンブスのように、出現すべくして出現した一種の必然であるということができる。たとえ発見したものに若干の誤りがあるとしても、まさにコロンブスの発見したものがインドではなくアメリカであったとしても、コロンプスの偉業が偉業であることに変りはないように、トインビーもまた通常の歴史家が世界全体と信じて疑わなかった「旧世界」を離れて、「新世界」を発見したという栄誉をあたえられてしかるぺきであろう。

「第10回配本、1968.2:歴史の研究 10 トインビー大著の意義 神川信彦著 Pー2【二)から」