トインビーと現代
谷川徹三
長谷川松治
司会 井上 繁(「歴史の研究」刊行会)
司会 お暑い折におはこびいただきまして厚くお礼を申し上げます。本日は刊行会や翻訳スタッフの関係者の方々の参加をお願いするところでしたが、種々の都合で松永安左エ門翁と長いつきあいの谷川先生、『歴史の研究』と長いお付き合いの長谷川先生のお二方だけになりました。本日のお話は、日本語版の最終巻第二十五巻の栞に掲載したいと思います。去る六月十五日の松永翁の一周忌・・・命日は六月十六日でございますが・・・の追悼会の席でも何人の方々が、「せめて今日までに全巻を完了したかったね」。と感慨を述 べておられました。私どもといたしましてに、確かに公言いたしました予定かからみますと、約三年間の、遅れでございますが、内容の点につきましては最後まで心を配っていくということで、せめてもの申し開きとさせていただきたいと思います。ことに第二十五巻は、再考察の三冊を除きました全巻のインデックスでございます。『歴史の研究』のインデックスはトインビー博士とその脇力者が心血を注いだ作品であろうかと思います。監修者の一人でありました故小泉信三先生は私どもに対し「ともするとインデックスが簡略化されることが多いが、その価埴を十分に読者の方に生かしてもらえるようにすることは、この翻訳全集の一つの大きな特徴になるだろうから、充分に心がけるように」といいう厳命でございました。
このような配慮の下に第二十五巻の製作に他にも増しまして時間をかけ誠心誠意努力を重ねてまいりました。この仕事の終結が近づき、あらためてふりかえってみますと松永翁がこの日本語としての完訳を思い立たれましたのは七十六歳の年、一九五二年に蝋山先生、阿部先生、長谷川先生によって翻訳されましたサマーヴエル編のアブリッジメントが日本人の眼にふれた前後のことだったと思います。従いまして現在までにかれこれ約二十年の歳月が流れております。
一方、トインピー博士も三十二歳の一九一二年九月十七日、アドリアノープルからニシュに向かう汽車の中で、前の年の夏立てた計画を新たにした全般的構想をまとめ、一応現在の最終巻でございます再考察を一九六一年七十二歳の春に刊行されておりますので、じつに四十年にわたる英知と時間の集積と申せましょう。距離と時間を克服した現在の人間社会で、三十二歳から七十二歳までの四十年という長い時間をトインピー博士は『歴史の研究』の著述に没頭され、七十六歳から九十六歳まで二十年という超人的情熱を松永翁がこの『歴史の研究』に注がれております。現代のこの偉大二人の人間に与えた刺激は果たして何なのでしようか。この辺のところもふれていただくと大変にありがたいと思います。
谷川 今の井上さんのお話で思い出すのですが、松永さんがロンドンでトインビー博士を訪ねて版権をもらっていらっしやったのは一九五四年。その前に松永さんはサマーヴェルのアプリッジメントの翻訳を読まれて大いに感心せられた。その頃私も松永さんとトインピーについて話し合ったことを記憶しております。おそらく松永さんはトインビーの著作については鈴木大拙先生からいろいろ話を聞いておられ、それがあって、サマーヴニルのアブリッジメントを読まれたのじゃないかと、私は思うのです。その版権をトインビーからもらっていらっしゃったのちに、鈴木大拙先生と小泉さんと私が松永さんに呼ばれて、翻訳の企てについてご相談を受けたことがありました。その時、どれだけ具体的なことを語し合ったか、いま私はおぼえておりません。ただ、その翻訳を最終的に見てくださる方として長谷 川さん、下島さんが適任者であろうということを松永さんから相談を受けて私も返事しましたが、私以外にもおそらくそういう推薦があったと思います。そして今日に至ったわけです。その後については、いろいろなご苦心なりは下島さん、長谷川さんにうかがわなければなりませんが、いずれにしろ、この大きな仕事は、やはり松永さんという人でなくてはできなかったと思います。今の刊行会が組織される前ですが、安倍能成さんを通じてか、小泉さんを通じてか、今ちょっと記憶にあ
りませんが、おそらく小泉さんを通じてだったでしょう。岩波書店に話しまして、岩波もいろいろ検討してみたけれども、一つには商業ベースには大変にりにくいということもあって岩波はことわった。現在のスタッフもほぼ決まった頃、電力会社をはじめ、刊行会の役員を引き受けていただいている財界の有力者の方々が、自費出版するといって頑張って私費を投じておられた松永さんをくどいて、われわれも応援するから、この計画を早く実現して欲しいと途中からでしたが乗り出してこられ、この仕事が起動にのったわけです。そういうことがなければ、ちょっとこれはできなかったと思いますね。この日本語の全訳以外には、私どもの聞いている範囲はスペイン語の翻訳があるそうですが、まだできあがっていないのじゃないかと思います。そうすると、こえはますます大きな事業になってくる。日本でこういう翻訳ができたということは大いに意義のあることで、誇り得ることだと私は考えております。それにつけても、この際あらためて松永さんに感謝したい気 持を私は強く持っております。その翻訳のいろいろなご苦心などについては一つ長谷川さんから。
長谷川 私はがトインビーの名前を初めて聞いたのは、昭和二十三の秋だったと思います。丁。当時勤めていた横浜の学校に芦田均さんが講演にみえました。すでに昭電事件のやまかしい頃で、芦田内閣の総辞職が日前という情勢の時でしたので、私は芦田さんのお相手をさせられて、控室で、「大変太礼な質問だけれども、、芦田内閣も長くないと思いますが、お暇になられたら何をなさりたいですか」とうかがったら、「私は大学の歴史の先生をしたい」ということ言われ、「政治家でとくに政権を担当する者は超人的な犠牲をしいられるもので、自分の時間が全くない。わずかに深夜床に入ってからの三十分たけが自分の時問で、その時間にトインビーの『歴史の研究』縮刷版だろうと思うのですが一を読むのが最も楽しい」というお話で、その時初めてトインビー博士の名と『歴史の研究』のことを聞いたのです。その時は、一国の総理をその魅力でとらえてはなさない本は、一体どんな本だろうと大いに関心をそそられほしましたが、まさか自分が『歴史の研究』を翻訳する運命になるとほ考えもしませんでした。蝋山先生と阿部行蔵さんが縮刷版に既にに手をつけていられた二十四、五頃に、蝋山先生から「もうすこしでできるが、なかなか最後が進まないからちょっと手伝ってくれ」と言われて、アブリッジメントの第一冊の一番おしまいの何十ページを手伝っていたら、もう少し前からやってくれということで、おしまいのほうからって結局三分の一くらい手伝い をしたのがトインビーとのつきあいのはじまりです。私は歴史の専門家ではないし、一介の読者として読むと大変面白いし学ぶことも多いが、とても翻訳などする気はなかったのですがピンチヒッターに引ッパリ出されてやむをえず手をつけたわけです。それから数年経ってアブリッジメントの後半、原著の七巻から十巻に相当する分が出た時に、今度はまともに蝋山先生から「おまえやれ」と言われてやったのですが、さて前巻とつきわせてみると、訳語の不統一をはじめ、どうも大変はずかしい所が多く、十数年気になっていたのですが、やっと文庫本に入れる時、初め、蝋山先生の許可を得て、一通り全部を手直しし、これで一応トインビーは卒業したと思っていたのです。
サマーヴュルという人は私は、よく知らないのですが、高等学校の歴史の先生だと思いますが、あの人の抄訳はできるだけ原文を残すようにしておりますが、あの程度の本の翻訳ならば何とができます。しかし原著に至ってはとうてい翻訳は不可能である。経費の問題、資金面もさることながら、第一、翻訳する人がいるだろうか。いろいろな理由はありますが、翻訳者というのは、原著者に近いくらいの見識、それから事実に関する知識、そいうものがなくては満足な翻訳はできない。トインビーの場合には、あの中にはじつに広範囲にわたって出てくる各分野の事実について、一人でそれを把握できる人がいったい日本に何人いるだろかといういうことがます第一。次に何といっても古典教育の背景、っこれは相当以上に理解をもっていないとどうにも扱いかねる点がある。私は商売柄ギリシャ語 や、ラテン語の端くれはわかりますが古典文化を深く身につけているとはとうてい言えない。さらに、谷川先生のような専門家でなければだめですね。ただ英語がわかるだけでなく原著を皆さん方に読んでいただけるような日本語が書けるということ自体が大変なことです。てういうわけで、私は『歴史の研究』完訳不可能論者だったのですが、とうとう翻訳スタッフの一員になるよう口説き落とされた次第です。井上さんがわざわざ仙台まで松永先生の命を受けてお出かけくださいまして私の直接分担いたしましたのは、原著の第五巻と第六巻、デスインテグレーション(文明の解体)で、全巻を通して私の一番興味をもっている部分ですけれども、最初お約束した時の予定では、四十三年度中には本になって出ているはずだったのですが、大変申訳ないことに私の担当分の遅れから三年近く全体の翻訳を遅らせてしまいました。一番完成を喜んでいただけるはずの松永先生に、最後の完成をお見せすることができなかったのは、もっぱら私の責任で、慙愧にたえない次第でございます。私は全体を見るなどということはとうていできないし、時間的余裕もなかったのですが、幸い下島さんがおられて、どうにかこうにか人さまに見ていただけるようなものがてきたわけで、翻訳者としては、とにかくせいいっぱいのところで、こういう画期的な大きな仕事に参加させていただいたことは、たいへんありがたいと思っております。
谷川 トインビーはじつに広く文献を漁っております。私は今でも記憶しているが、たまたま私が全然知らなかった人の本の引用で、東ローマの皇帝の娘でアンナ・コムネナの『アレク
シアード』、あの書物の引用で、第一回十字軍の騎士達がコンスタンチノーブルを通過する時に、その皇帝に無遠慮みんな謁見しようとする。皇帝はたくさんの人に会うのに、一日中朝から晩まで、時には翌日の夜明けまで殆んど立ち通しで会見しているのです。そういうのを非常に面白く書いているのです。
長谷川 じつにありありと目に見えるように描いています。
谷川 皇帝がアレクシウス一世、その長女なのですね。そんな女の歴史家がいるなど、まるで知らないし、なるほどこんな本まで読んでいるのかとぴっくりしたのですが、これは一例でそういう例は無数にあるのです。思いがけない本をじつに無数に読んでいますから、翻訳は大変でしょう。どんなに骨が折れてもたかということは、私どもよくわかる気がするのです。
今日は、しかしそういう問題、トインビーのことを話すなどということは、ちょっとあまり範囲が広くてきりがありませんので、一つ「トインピーと現代」という問題にしぽってお話し合いをしたいと思います。私が非常に感銘を受けたことがあるのです。昭和三十一年にトインピーが来日した時に記者会見をした。その記者会見に立ち合った松本重治君から聞いたのですが、その席でトインビーは今の世界情勢の変化の中で、アメリカとソビエトが手を結んで中国に対抗するような時が来るかもしれないと言ったのですね。その頃としては、そういうことはだれも老えていなかったし、もちろんだれも言っていないことです。それがやがてだんだん現実になってきた。トインビーは自分は予言者でないということをたぴたぴ言っていますね。慶史というむのは予言する のではないと言っておりますが、あれだけ広く世界の歴史を見てみますと、自然と予言的能力が出てくるということを私は感じたのです。
それからもう一つのことは、私が昭和四十四年孫たちを連れて、一年近く自分の子供と別れてアメリカにいた息子夫妻に早く会わせてやろうと思って迎えかたがた迎えかたがたハワイに行ったのです。息子は『プレイボーイ』という雑誌を買ってきまして、トインビーのインタピユーが出ていて両白いよ、と私にくれました。この雑誌の中でブレイボーイ・インタピューだけは非常に高級なのです。一流の人をつかまえてその人と対談するに足る能力をもった人と対談させるのです。トインビーとのインタピューも非常に長いものて、私も夢中になって読みました。その中でこういうことを言っているのですよ。「現在のような世界の情勢では、これは人類滅亡の危険がある。それを避ける道は世界政府というものを作るこことだ。しかし世界政府というものが願わしい形できるかどうかには疑問がある。これが米ソ、あるいはそれに中国をも加えて米ソ中という三国が世界政府そのもののヘゲモニーを握って、小国がその専制的支配に屈するような形でできる可能性がある。しかし、それにしても、それは人類減亡よりはましで、これはちようど紀元前一世紀に、それまで混乱していた西ヨーロッパ世界の秩序を取り戻すために、ヨーロッパ諸国民がアウグストウスの専制の下に屈した例によってもそれはわかる」、あれはギリシア文明の動乱時代を世界国家という形で、支配的少数者が一つの秩序を作ったというのが、トインビーの見方ですからね。
これは、つまり東アジア文明 において、長い戦国時代を終わらせるために漢帝国というものができた。漢帝国の専制支配の下で秩序が作られた、こういう例と比較することができる…。そう言っているのですよ。私は世界政府論者で、世界政府論を、そういう形において少数の国の専制的支配における秩序という形においては作りたくないし、作るべきでないと思っておりますし、ちょっと衝撃を受けたのです。しかし、最近のニクソン訪中、ニクソンの訪ソによって、ペトナムにおけるアメリカの行動が相当自信になったでしょう。中国もソ連もベトナム人民を支援まっておりますけれども、今のアメリカの無法な北ペトナなどの事実を見ていると、いて、長い戦国時代を終わらせるために漢皇帝というものができた。漢皇帝の専制支配の下で秩序が作られた、こういう例と比較することができる・・・・。そういっているのですよ。私は世界政府論者で、世界政府論を、そいう形において少数の国の専制的支配における秩序という形においては絶対的に作りたくないし、作るべきでないと思っておりますし、ちゃんと衝撃を受けたのです。しかし、最近のニクソン訪中、ニクソン訪ソによって、ベトナムにおけるアメリカの行動が相当自信になったでしょう。中国もソ連もベトナム人民を支援するといっておりますけれども、今のアメリカの無法な北ベトナム爆撃などの事実を見ていると、これは容易ならぬ事態だと思うし、こういう事態がひとりベトナムばかりでなく、その他の地域に及んで、同じような形で米中ソという大国の専制的という形で現代の混乱がおさまるようになる可能性もない。こういうことを私は考えるにつれて、いっそうトインビーを題にする意味があるように思う。私は最近、トインビーと若泉敬君との対話集『未来に生きる』を読んだら、非常に注目すべきことを言っているのです。トインピーは世界政府という概念と、世界国家という概念を区別していますね。世界国家というのは、トインビーの歴史観全体を貫く少数者の専制的支配という形における文明の末期に起こる一つの現象で、それに対して今日の問題を考える場合の世界政府ということばを、トインピーはその世界国家の槻念とは別の意味でつかっているということをを、この中で私ははっきり 知ったのです。トインピーの『歴史の研究』の中では、世界政府という概念は、私の見た範囲においては出てこない。世界政府という概念は、人類が破滅するかもしれないような現代の特殊な状況の中で、やはり国連との関連において使っていることばで、大体の趣旨をいうと、そういう状況においては、やはり世界政府というようなものは樹立されなければならない。そういうしっかりした世界政府が樹立されるとすれぱ、その世界政府はすべての個別的国家が軍備を保有することを禁止することができるし、また、その軍備の禁止に、よって、現在、不経済に軍備に使われている巨大な予算が、人類の条伴改善のための支出に振り向けられるだろう。そうすれば、南北の対立というような問題もそこから解決のメドおつくようになる。この南北の対立という問題は、もし、依然として富んだ先進国が、それぞれの国家利益を追及するようなことをしていれば、いつまでたっても、それは解決しない。そういう状態に対して現在そのとり得る措置としては、貧しい国の利益のために、富んだ国に重税を課することができるような強力な世界政府を作ることだ。
次に貧しい国々を組合組織化することが必要だ。労働組合やストライキは、それ自身よいものでないけれども、それは、やはり社会的不正義の永続よりはましである。それはちょうどそ
れれぞれの国家内において階級対立を緩和し、民主的な福祉国家を作るような、そういう仕方を世界全体に及ぽすことが必要だ。現にイギリスでは、戦後イギリスを福祉国家にすることによって、一種の危機を回避することができた。それと同じ仕方で地球全体を危機から回避することができる。そういう場合に金持
がみんな近視眼的で平気で今までのやり方を続け、また貧乏な人達があまり挑発的、暴力的になったら、これはどうにもならない状態が生み出されるので、中間の道をやはり見つけなければならない。それが、つまり世界政府を作って、それによって新しい秩序を作り、そして、ちょうど多くの国が国内的に多くの矛盾を解決したような仕方で、南北の対立という問題は解決することができるようになるだろう。こういう形の世界政府を作って、それによって、もし世界国家ができれば少数者の専制支配という形における世界国家とは違ったものになる。トインビーが『歴史の研究』でもっぱらその意味に使った世界国家というものを出現させないですむようになるだろう。しかし、そうでなければ今の富んだ国は、二つの恐るべき道のいずれかを選らばなければならない。それは憤激した多数人類の三分の二に当たる貧しい国が反乱することに富んだ国がその地位を追われるか、世界的規模のファシスト政権を富んだ国々が作って、多数人類の三分の二の貧しい国を抑圧するか、いずれかの道を選ばなければならなくなる。後の場合がトインビーが『歴史の研究』の中で使った世界国家の概念で、そういうふうになる可能性もあるけれども、その可能性を現実的なものとしないように努力するのが若い人達の務めだ。こういう形で言っておりますね。
これはトインビーが以前から『歴史の研究』の中でもそれを言っていますし、『試練に立っ文明』の中でも言っている、あの考え方と一緒なのです。それはイデオロギー対立による、あの『試練に立つ文明』を書かれたのは、米ソ対立が激しい頃でしたし、その頃に書いた『歴史の研究』の本文の中でも、従ってそういうものを頭に置いていっているわけですね。こういう対立は激しいけれども、平和共存という形にもっていかなけれぱ、世界破滅を人類にもたらすことにたる。現に小さい徴候は見えている。ニューディール以来、アメリカも純粋の資本主義国でなくなっているし、北欧やイギリスでは社会福祉制度を採用して社会主義に近づいている。他方、社会主義の国でも少しずつ変化を見せている。双方の変化が双方の歩み寄りになる。これは.平和競争という形での平和共存においては、相手にうち勝つためには、相手の長所をとり入れて自分の弱点をカバーしなければならないわけですね。そうすると、そういう作業の中で相互接近が行なわれるという考えを、トインビーは言っていますね。この線が中道の線なのですね。
中道の線が願わしいし、現代ではその可能性も見えるけれどもそれと反対の方向も見られる。強国が、あるいは富める国がどこまでも自己のエゴイズムに固執し、他方それに対抗して弱い国が激発する場合もある。これは始末のつかないことになる。これがトインビーの基木的考え方です、その線に沿ってトインビーはペトナム戦争におけるアメリカを非難し、いろいろな暢合に発展途上国の味方になってその代弁をしています。こういう現代に対するトインビーの見方、それは結局将来への見通し中、含むものなのですが、こういうトインビーの見方にある権威をわれわれに感じさせるのは、『歴史の研究』の全巻に語られている世界の諸文明の詳細な研究、それがあってのことだと思うのです。
長谷川 今のお話にあったように、世界政府と世界国家とはっきり区別しているもう一っの理由は、世界国家というのはノック・アウト・ブローによって出現するものですね。いくつかの強国がお互いに争って、ただ一つがが生き残るという形の体制である。現代はそういう世界国家を出現させるぜいたくを許し
ておけない。それはただちに人類の滅亡を意味する。それを避けるためには世界政府がなければならないということですね。それには国連などというものはだめだということが根底にあるようですね。それで中問的な形として今お話のあった米ソ中という中間的過程としての方式が出てくるのでしょうね。
谷川 国連の強点は諸国間の連合であって、一種の立法機関と一種の行政機関とを持っているけれども、その国連そのものは、世界のそれぞれの国の人民とは直接つながっていないですね。政府を通してつながっています。アメリカにおける上院と下院というものを考えると、下院というものは直接人民につながっている。上院は各ステーツを代表する。そこのところでう
まく調節されているけれども、国連にはその下院に当たるものがない。上院だけだというのがトインビーの意見ですね。これが国連の大きな弱点の一つである。
もう一つは、国連は財政的に無力だ。だからもし強力な世界政府を作るためには、世界政府というものをたんに世界連邦という形でなく、世界連邦であっても同時に世界政府に世界中の国々からの直接徴税権を持たして、財政的基礎を周めなければならない。と共に、世界警察軍を持たなければならない。これによって初めて強化できるのであるということですね。
司会 松永翁が亡くなられた時のおくやみのことばの中に、He
was one of the greatest world citizenという表現があるのですが、ユニバーサルとワールドとはどういう概念関係になるのでしょうか。
谷川 トインピーはワールドという場合にはバロキアルということばと対照的につかっている。パロキアル・ステーツといえば地方国家か・・・。
長谷川 バロキアルというのは局部的なという意味を含んでいますね。
谷川 だからワールド・シテイズンというのナショナリズムというものに毒されていないということですね。
長谷川 パロキアリズムというのは卿党的な精神。
谷川 ユニパーサル・ステーツとか、ユニバーサル`レリジョンということぱは、ワールドと言ってもいいけれども、昔の文明というのは、今日のように全地球規模にわたっていないでしょう。そういう意味でユニバーサル、これはカトリックという意味と同じ意味ですがらね。
長谷川 ワールドと関係させている。ワールドの中の一部に関係する(バロキアル)のではなくて、ワールド全体に関係するという意味でユニバーサルなのでしょう。
谷川 一つの文明の中の。
長谷川 文明との関孫でユニバーサルであって、パロキアルではないということでしょう。日本語で表現する掲合、いちいち普遍的というのはたまらないので世界国家、世界宗教とうふうにしましたが。
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司会 世界国家、世界宗教が今ではすっかり日本語として通用していますね。
長谷川 翻訳をやっておりまして、トインピーの発想で興味をそそられたのは、ほんとうの意味のチャーチー教会、信者の集まりーあれを文明社会と異種のもの、ダイメンションの違う社会と考えている点てす。
文明と宗教の関係を追究していって、宗教は文明の癌だろうか。いや癌ではない。それでは文明の蛹だろうか。いや蛹にとどまるものではない。それどころか、文明のほうが世界教会に向かって無意識に指向している運動ではないかという捉え方をしていて、非常に特徴的な感じがしますね。
谷川 トインピーが愛というものを世界で最も大切なものであると考えているからで、トインビーの一番尊敬している人は仏陀とセント・フランシス、これは人間に対する愛のために自己中心性を完全に脱却している、そういう人はほかにもたくさんいる。科学に対する情熱のために自己中心性を脱却しているアインシュタインのような人もある。芸術に対する愛のために
自己中心性を脱却している人もあるけれども、しかし一番愛というものを純粋に発現っせているのはやはり宗教なので、そこから仏陀とかセント・フランシスという人を最も尊敬する人としています、しかし、特定の信者になることを拒んでいますね。特に西欧キリスト教世界では、特定の宗派の信者になることによって自由を束縛されるぱかりでなく、キリスト教そのものの本質の中にあるイントレランスを持たされやすい。仏陀にはイントレランスはない。同じキリスト教でも、セント・フランシスは全くそういうもののない人です。私が、トインビーを読んでしぱしば感じた疑問ですが、トインビーがコミニニズムを扱う場合には、いろいろなことを言っております。一言にして言えぼ、コミニニズムというものはキリスト教のほうにも、ある場合には引き裂かれた一ページとか、ある場合には世俗的宗教ということも言っておりますが、要するに酉欧世界におけるインナー・プロレタリアート、ある意味においてはユニバーサル・チャーチとしての性格をもっていると思われる一面がある。トインビーもそれに近いことばで言っている場合もある。しかし、ほんとうにユニバーサル・チャーチとしてはトインビーは見ない。これをトインビーがユニバーサル・チャーチとして認めるものはハイアー・レリジョン、コミュニズムは一つのインナープロレタリアートの宗教ではあっても、トインビーは、現代はナショナリズムが一つの宗教だ。しかし、これは低次の宗教だということを言っております。コミュニッズムを宗教と見る一面あっても、底次の宗教だ。
長谷川 トインビーのいわゆる「変貌」をとげていないからでしょう。
谷川 しかし、トインビーの史観全体におけるコミュニズムに与えている位置というのは問題に足りることだと思うのです。
私はいつか栞に書いた中にもそれを言っておきましたし、トインビーがこの前来た時に、京都で田中美知太郎君と私とトインビーと話し合ったことがある。私は初め雑談している時、それを質問してみた。あなたの史観でいくとコミュニズムというものは、西欧世界のインナー・ブロレタリアートの宗教として---------------------[End
of Page 1]---------------------のユニパーサル・チャーチとして見ることのできる一面を持っていると思うかどうかと言ったら、それを否定しましたね。
とにかくまだ問題になる面を持っていると思いますが、大体において半分私自身の推定を加えていえば、宗教ではあってもハイアー・レリジョンには・なれないということでしょうね。
長谷川 さっき、ちょっと申し上げたように、コミュニズムがハイアー・レリジョンでないのは、文明社会と同じ平面にあるからでしょう。
谷川 世俗的なということですね。
長谷川 世俗的次元を越えていない。
谷川 その意味においてはナショナリズムが現代の宗教であるのと同じ次元にある。
長谷川 トインビーの好んで用いる概念であるエセリアライゼーシ日ン、霊性化、その過程を経ていない。あくまでも現実の世俗的面にとどまっている。そういうものは高等宗教とは考えないのでしょうね。高等宗教を媒介としての人間の交りというものが別種の社会として、文明社会を越えたところにある。
神を成員として含むその社会が文明社会と接触する時に、人間の精神的進歩が起こるというふうにトインビーは見るのですね。
谷川 ダイメンションが違うわけですね。ですからナショナリズムが現代の宗教だというのと同じ意味においての宗教ですね。
長谷川さんがいろいろお読みになったりして、トインピーが現代とかかわりをもつ一番大きな面ですね。現代人の心をとらえる一番大きなところはどんなところですか。
長谷川 翻訳して感ずるのは、トインビーは『歴史の研究』を一貫して虐げられている人々、貧しい人々の立場にたっていることですね。それがやはり現代の問題についての彼の発言の底にもずっと流れているのじゃないかという気がするのです。先ほどおっしゃった愛の精神じゃないかという感じがしますが、その辺からの発言が現代人にアッピールする面じゃないかと感ずるのです。
谷川 南北問題というものに、トインビーが非常に大きな関心もっているのも、南の国の人々の貧しさ、半分飢えているような貧しさですね。
長谷川 それを強く感じますね。
谷川 そういうものをいつまでもそういう状態にしておき、むしろ、いよいよそういう人を虐げる結果になるようなことが歴史の上で大きな悲劇にしていることの実証ではないか。かえってそういう人のために上層階級、富んでいる人達が悲運に突き落とされるような結果を見て、また一つの文明が結局没落するような、そういうことを歴史の上で実証しているだけに、現
代に対する警告ですね。
長谷川 いわゆる支配的少数者に属する階級の人々でインターナル・プロレタリアートの中に身を投ずる人間の価値を相当高く買っていますね。
司会 ただいまのお話で現代的、あるいは今後の問題、それから人間に一つの課題を与
ら返ってみまして 印象的なものをおもちになっておられると思いますが。
谷川 松永さんという人は、広い交友のあった方ですが、戦前だったと思いますが、目白のお宅で茶に呼ばれて応接間で話をしていたら、そこに松本治一郎さんがやってこられた。私は、松永さんと松本治一郎さんとちょっと結びつかなかったのですが、九州にいた時分からのつきあいのようでした。その後松永さんが色紙を書いて与えられた。「公正の論は不平の徒より生ず」、これは福沢諭吉のことぱですが、松本さんは非常に喜んだというのです。福沢諭吉という人はいろんな画があった人ですが、「公正の論は不平の徒より生ず」ということぱを一つ自分の信条として持っていたということは、多くの人が福沢諭吉を見る場合、閑却すベきでない。同時に松永さんが工.の福沢諭吉のことぱに非常に感銘し、人に丁てういうことばを毒き与えたということ、これこフて松永さんの本領の中にあるので、それがまたトインビーがいつでも貧しい人の味方であったということと桁通ずる。トインビーのものを松永さんが非常に喜んだという一つの根拠がヱ、こにあったという気がしますね。
司会大変長時閲、ありがとうございました。
最後にこの大きな文化的遺産を私どもに残してくださいました松永翁、鈴木博士、小泉博士のご冥福を祈ります。また、この大事業を経済的にも心理的にも最後までご支援いただいた.電力会社をはじめとする種々の会社とその経営者の方々、翻訳や考証をしていただいた諸先生ならびに採算を度外視して協力をされた経済往来社、刊行物としては今後ふたたび製作し得ないであろうと言われるほどに、その製作を吟味していただいた精興社の皆様方、さらには表面にはでておいでにならない校正担当やインデックスの整理などに当たられた多くの協力者の方々に、心から感謝をいたして、この座談会を終わりたいと存じます。
『歴史の研究』への私の自由研究
飯島善太郎(読者)
『歴史の研究』全巻にわたる赤や黒の鉛筆・ポールペンの書き込み(机上、車中、野外でのわたしの学習法)を見かえしながら、つかずはなれがちな雑感をならべさせていただく。
わたしは歴史学のスペシアリストではなく、『歴史の研級』を知るかぎりでは最大の問題集だとしている一自由研究者にすぎない。それも、歴史的知識においては、高校の教科書に毛を生やし、「精神的課題としてのイデオロギー戦争」のしぷきをかぷって塩気を加えた程度にすぎない。いわぱ井の中の蛙、いや一匹の蟻が、ケンジントン公園のあひるとかもめの喜劇を見物してふきだすトインピーの足からはい上ろうとしているかたちである。したがって、ポレミーク的必要もなく、裸一貫、「世界的規模の乱世」のその他大勢の一人としていかに生きるかの悲願をたよりに、思うままに読了することができた。
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わたしの読み方は、その日の頁数、集中度に緩急深浅の波ありで、しかもいささか偏向があるようだ。今回は、あまりに哲学的、文学的に、そして進むにしたがってトインビー同様宗教に重点をおいて読み進んだきらいがある。それはわたしが蘆溝橋事件の直前に生れ、まるごと戦争時代に属しながら兵役の体験なき妙な世代であることには直接関係なく、むしろ「人生の覇旅なかばに当りて、とある暗き林の中に」あったためであろうか。そのため、イデォロギー戦争の渦中でマルクスの風を強く食って育ちながらも、その「歴史哲学」(唯物史観の歴史的フォルメンはへーゲル的西欧中心史観の枠を逸脱していないので)の歴史的被制約性を現時点でどう解決するか、そのためにとりあえず高校的知識の上にトインビーの大パノラマをのみ込んでみる、というのが初めサマヴュル版の抄訳を読んだときの主たる関心であったが、完訳版にとりかかって、重点を移すに至った。いいかえると、この間、戦争制度全廃主義の思想家(「回想録」)トインビーが二十世紀に大きな影響を与えた二人の人物として特筆しているレーニンとガンジー(わたしにいわせると西欧化世界の内的プロレタリァートの双児のリーダー)の道における選択を迫られることによって、もちろんわたしがレーニンにみたものも、ガンジーに学ばんとするものも主観的には同じ解放の思想であったとはいえ、前者の苦悩より後者の苦悩の中により深い意味を認めるに至ったのであるが、その有力な産婆役の一人としてトインビーを選んでいたことになると思う。この際、著者への批判、いいかえるとおそらくソルジニーツィンがトインビーに抱くであろうような不満については、---------------------[End
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敢えて述べたい。ひたすら真実のために「もう一方の言うことを聞け」(アウグステイヌス)という立場で、一九五六年のモスクワに対するブダペストの声を聞いたつもりのわたしにとって、トインピーがギリシア・トルコ戦争の問題、近くはペトナム戦争でこのモットーをつらぬいていることを知ったとき、あらゆる文明の大回顧展という初期にいだいたイメージは二次的なものに変りはじめた。さてわたしの「暗き林の中」での『歴史の研究』の研究は前後三回に亘る病院生活と重なりました、親鸞、道元、大拙、ガンジーとの出会いと重なって、文字通り「苦悩を通して学ぷ」(アイスキュロス)底の道であり、それ以外ではありえなかったように思う。これが宗教的哲学的読み方の一因であった。
『歴史の研究』の前半から後半への著者の観点の移動、すなわち宗教改革⇒戦争の幻滅的遺産の遠果としての不可知論的「背教」(理性と人間の悲惨の事実によって神の全能性を否認)から、『一歴史家の宗教観』や『回想録』に赤裸々に告白されている究極的精神的存在への肉迫=再回心への過程を、わたしはわたしなりに短縮的であるが内発的に追体験したつもりである。
これは老えてみると日本の明治的屈折とヒロシマによって生れた空隙の挑戦に対するわたしなりの応戦であったと思う。おそらく独断として一笑に付されるにちがいないが、マルクスでさえ、「宗教批判」で出発した時点での有名な「阿片」規定(そのコンテクストでは現実の次陥への人間的抗議としての宗教の面に言及しているのだが、一般にこの面は無視されている)から、晩年息子に語ったといわれるイエスの話の時点へのある種の再回心的移動があったに違いないとわたしは思う。宗教の、歴史的制度的権威の堕落とその害毒への弾劾と、人間の自己中心性と超克する仕方としての究極的精神的存在への肉迫、これが、人間性の謎としての歴史の中では主として宗教というかたちで行われ、問題にされてきたという事実は別のことであって産湯とともに流さるべきことではないのだ。そういうわけでわたしの研究は、一方におけるイエスから宗教戦争の末路へ、他方におけるゴータマから鎌倉宗教改革を経て明治的末路へと流れる系列の中によかれあしかれ教訓と応戦の手がかりがあるにちがいないという異常な関心を供っていたのである。
トインビーの知をささえる愛と苦との意義および「寛容」についてわたしは教えられた。憎悪があるとすれぱいまわしき戦争という制度に対するそれ以外ではない。トインピーの「寛容」は「再考察」の態度にいかんなく現われており、わたしには一つの驚きであったが、不寛容、狂信、偏見のイドラを排する点で、カルヴァンに対するエラスムスを彷彿させる。トイン
ビーはいう「人間事象を研究する者で個人的な偏見に影響されずに研究できると想像する人は誰であれ誤っている。人間事象を研究する者にできることは、せいぜい自分の偏見を看破してこれを明らかにすることだけである」と。
『歴史の研究』でわたしが重んじたいのは、エゴイズムとならんでこの哲学的同時代に現われるノーシズム(Nosism)の指摘であった。すなわち一人称複数の人間集団(部族・国家その他大小のセクト)神の崇拝である。このレヴイアタンが、一見、単数一人称のエゴセントリズム(原罪あるいは凡夫性)を犠牲にするかの如き愛の仮象形式をまとうがために、その人間中心主義的倣慢さの罪悪の程度は一層おそるベきものであるという指摘であった。とくに現代の国民国家主義(トインビーによれば個人主義、共産主義、フアシズムを標榜するそれ)。または世界国家へ移行する過渡期に出現するさまざまな世界「革命」路線の対立。一方のレヴィアタンからの脱出は他方のレヴィアタンヘの逃亡以外にないように見える現全の異常な困難。解決はレヴィアタンの択一的選択の中にはない。トインビーの現勢図によれば人類の四分の三(貧しい農民)の帰趨をめぐって東西を分割している都市と工業によって武装されたレヴィアタンの対立は二重であり、制度的(資木主義と社会主義または私的所有と社会的所有)な面は量的相対的で妥協可能であるが、原理的な精神的イデオロギー的戦場における対立はより深いとされ、しかもその両者に対する宗教的倫理的評価には軽重をつけているようである。
活力ある東のレヴィアタンと信仰を失ったがキリスト教の遺産の中三種の可能性を失わない西欧という著者の判断にはわたしにはΨてのままうけとりがたい疑問をのこ†。しかし人類が核戦争による絶滅を回避し何らかの世界国家。"、経て、しかも、人聞中心主義をすてて再回心をしなけれぱならず、.ての際、既存のいずれかの宗教的権威の復古による世界の一宗化ではなく、ユダヤキリスト・イスラム系の不寛容の面キ、すてて、インド系(仏教`ヒンドゥー教)の寛容の役割を生かす道キ、提唱する点を、わたしは肯定したい。人間がノーシズムに転落せずに社会や集団を形成しうる時が来るであろうか。わたしは時に、愛と無一物(共有でさえない)、を原理とするこの世を夢想する。フランチニスコの兄弟たち上下平等に普請に出る檀林の僧団。在家の同行同朋などの示唆的イメージである。
さて『歴史の研究」]のわたしの書き込みが多いところをひろって並べると、次のようになる。「創造的少数者の引退と復帰」のドラマ、文明の挫折、解体期における「魂の分裂」から「再生」に至る遍歴的応戦(ダンテの「神曲」善財童子の五十三次を思わせる)の系列。ヘロデ主義とゼロト主義、復古主義と未来主義、「剣を持った予言者」の末路、「受難のキリスト」行諸形態の分析、魂の応戦、とりわげ「法則と自由」の問題提起、西欧文明の前途と未来の問題(戦争制度廃絶以後のパンとパンのみにて生きるにあらずの問題)提起、などであったとすると、そのとうりほぼ全部であった。
最後に『歴史の研究』の「再考察」に際してのわたしの自戒について。すでにエゴイズムとノーシズムについてはのべたが、認識においても、また行動においてもともに重要だと思われる、妙と如(仏教的用語をいきなりもち出したが)についてである。論理からいうとアナロゴスをいかに人間事象の研究においてあつかうべきかということである。極言すると人を牛馬の如くみたし(認識)牛馬の如くあつかう(実践)ということの研究である。いいかえると、人間の神格化、あるいは物化にしても、人間事象研究において、神話的麦現や、自然界との類比が不可避でウかつ不完全かつあることをみなすところからくる。人間事象を対象とする科学といわれている世界から、これをしめ出したら何がのこるか、逆にまだまだ無自覚な使用が横行しているらしいという問題である。神格と人格(単数と複数)化、これに還元不可能であるが)の類此。神格化、擬(単数)化、物化の錯誤を避け、この妙な人間事象を「あたかも・・・かの如き」ものとしてつかみ、けっして単純に他者に還元して神=人同型、人=物(メカニズム)同型、物=神同型説の混同・同一視におちいらないため、この類比・擬似の論理への明確な批判意識をとぎすまし、「ようである」ことを「である」といわないようにする必要がある。これが自由と法則の問題と人間事象を再研究するための自戒である。あらゆる偶像崇拝とイツモルフィズムヘの警戒として。こんたことは科学以前的なたわごとであろうか?しかし 『歴史の研究』はこの問題がはっきりしないと本当はわから'はいのではないか。
以上妙なたわごとの如きこことを無邪気に述べた。原子爆弾は連合国の武器に空しい勝利をもたらしたが、その結果、ここしぱらくは日本の魂は被壊されることになる。爆弾によって破壊された国の魂にどのようなことが起こるか、ほんとうにわかるにはまだ時間がかかる」(トインピーとあってもおかしくないガンジーの言葉)わたしは「苦悩を通して学び」応戦しなければならないと思う。トインビーに感謝する。
刊行を終えて
『麻.吏の研究』完訣口太語版の刊行を、今回の「索引」をもって完結いたしました、.
故松永安左エ門翁によって、この計画が進められてかから約二十年、翁みずからロンドンにトインビー教授を訪ね、約束を交されてから満十八年を閲しておりまます。翁は当初、独力でこの仕事に当たられたのでありますが、その後、財界、学界の後援を樗て刊行会が組織され、鈴木大拙、小泉信三、蟻山政道、谷川徹三、呉茂一先生らの碩学が側面から翁を援けられました。翻訳陣も、下島連、長谷川松治両教授を中心に、荒木良治、瀬下良夫、三沢進、山口光朔、富田英一、増田英夫の諸教授らが非常な努力を払われた他、国公私大の数多くの専門学者の協力を得ております。この間、トインピー博士も来日の際直接指導に当たられるなど、関係の方々のご尽力にも並々ならぬものがありました。この事業が無事完了したことは、まことにご同慶の至りと存じ、これらの方々のお骨折りに対し、あらためて深甚な感謝の意を表します。
また、広く財界の援助で、この完訳日本語版全二十五巻が全国殆んどの大学、国・公立図書露に寄贈され、多くの読者の便に供する道が開かれたことも私の大きた喜びであります。
なお、この刊行は予定より遅れましたが、それと申しますのも翻訳陣が原文の高い格調を損うことのないよう、注意に注意を重ねられ、ひたすら良心的に取り組まれた結果でありましたことを.ご了承下さいますようお詑ぴと共にお願い中し上げます。前会長松永耳庵翁の歴史的ご功績を偲びつつご挨拶単し上げます。
昭和四十七年八月
「歴史の研究」刊行会会長木川田一隆