建仁寺の黙雷禅師       黙雷宗淵         伊  藤  東  慎

東山の門風を挙揚

 黙雷禅師は明治二十五年、
三十九歳の若さで建仁寺派管長となり昭和五年の示寂まで約四十年間、終身在職して東山の門風を挙揚した巨匠である。明治の禅匠としてはむしろ後期に属するので、その鉗鎚を受けた耆宿や教化にあずかった居士大姉で、いまなお健在な人がかなりある。私でさえ山内の雛憎として禅師の晩年十年近くその謦咳に接した。長身痩躯、スマートで貴公子然とした容貌。それでいて両耳から頬にたれさがる数条の銀綿、顎の下の長い白髪、脱俗洒落な風格とともに異様なほど灼けつくような印象で眼底に残っている。

 昭和三年の今上陛下即位の大典には、仏教各宗のなかで
最も在職年限の長い管長として、金盃下賜の栄にかがやき、宗門ばかりでなく、広く仏教界でもその道誉が高かった.さらにあの独特の隷書体の墨蹟と絵、それに茶の箱書、手造の茶器などで世間的にも親しまれらの栄誉や世俗的な余技は、師の附属物にすぎない。師の生涯で特筆しなければならないのは、建仁寺の禅堂開単とそれによる宗学の振興と叢蝮の刷新であろう。臨済の各山では明治維新前後に、現在の僧堂が開単され、宗学を振起しようとする動きがおこりつつあった。それが建仁寺では明治の中葉に、天文の大火後三百数十年廃絶していた禅堂「大悟堂」の再建という形で、禅師を中心に推進されたということができる。

 
禅師についての姿料はかなり多い。本格的な語録として『暗号密令』三巻(昭和五年刊) 『暗号密令拾遺」一巻(昭和十一年刊)がある。いずれも藤田玄路、内村退両居士の編?(へんしゅう)である。編者の玄路居士は通名を徳次郎といい、大阪綱島の実業家の出身で『塗毒鼓』(大正五年刊) 『同続編』(同十一年刊)を編?して、在錫中の雲水に施本した篤信家。退帯居士は通名を邦蔵といい、初号は鉄帯、晩年高台寺霊山の麓に閑居していた詩文の大家。ともに黙雷門下の居士の双璧である。ところで『暗号密令』三巻は禅師在世中の出版で、編者のひとり玄路居士には、刊行にあたって不吉な予感から、一種のためらいがあった。同書下巻末の居士の論語に次のようにある。

  列祖の語録は概ね順世ののちに成る。近代の諸家もまた、ただ寂後の録のみあり。在世の録  なし。いまこれを在世中 に刻せは凶事を予するのきらひなきを得んや。

と。一般に語録は禅僧の示寂後につくられるもので、最近までその慣例がまもられているから、師の在位中にその語録を出版するのは、不吉を予側するきらいはないかというのである。このとき既に禅師の寿塔である「弥綸蔵」と寿像が出来あがっているから、これは語録というよりは寿録であり、師門の祥事としてよろこぶべきだという、共編者退帯居士のすすめで発刊を見た。ときに老師の喜寿の春、そしてその秋が老師の遷化のときであった。不思議な因縁である。本書は退帯居士の『暗号密令拾遺』の跋によると、師が管長に就任した明治二十五年から、大病快癒の大正十四年迄の寿録という。一二の例外(上巻十二右、『示衆」の明治廿三庚寅、十六左「歳謁」の同廿四辛卯など)を除いては、その通りである。 『暗号密令拾遺』は前書に漏れた部分に、年譜を附録としたものである。

 このほか『喫茶養生記』和訳。禅語ものとして『黙雷禅話』『続黙雷禅話』『禅機』『禅の面目』『大機大用』『牛の睾丸』『禅室茶話』『死んで生きよ』F禅の殺活』などがある。これらの諸篇で、禅師の接化手段や逸話などがうかがわれる。

修行時代        
 禅師は法諱を宗淵(そうえん)、道号を黙雷(もくらい)といい、室号を左辺亭(さへんてい)といぅ。「左辺」という語は勿論、中国の五祖法演禅師の故事に因んでいる。建仁寺の山号「東山」が法演禅帥の住庵と同じで、その会下の南堂静禅師のいた米搗小屋を「左辺亭」といつたところから取ったものである。また隠寮を不二室といい、師の花押はこの「不二」を象形化したものといわれている。

安政元年(1854)七月三日、
長崎県壱岐郡香椎村の生まれ。俗牲は竹田、父を勝治、母の姓を川上という。五男二女の第四子で、幼名を熊推といった。七歳のとき石田郡太陽庵の良堂和尚について祝髪して宗熊と改名、翌年大徳寺派の中本寺安国寺道樹和尚について三帰戒を受けた。

文久三年(1863)艮堂和尚に髄って太陽庵から隣村の正伝庵に移り、この歳、国分寺の洪萱和尚について内外典と作詩法を学び、のち国分寺の後任である秀岳和尚に髄侍した。十四歳のとき艮堂和尚の遷化にあい、その後は観音寺に移った秀岳和尚の弟子となり、宗尤と改名した。玄海灘の荒波をわたって、博多宗福寺の蘭陵和尚の門下に投じて、宗学を修めるようになったのは、明治元年(1868)師の十五歳のときであった。これから諸国へ、諸師遍参の旅がはじめられる。

翌年福岡の碩儒、亀井南冥に従い漢学を修め、太宰府の勝善寺に移錫して、秋月藩儒近藤木軒の塾に出入した。十七歳のとき再び崇福寺に帰り同寺に寄寓していたとき、たまたま人から『寂室録』の次の偈を示され、感奮して道念をいよいよ固めたという。 大事因縁山よりも重し。憎となって了ぜずんは、また、何のかんばせかあらん。憐れむべし、 世上聡明の客。老却す推敲両字の間。

 修行時代、網代笠に
「大日本帝国」と墨書して歩いたという逸話がある。出生地が辺地の孤島だというので、同参のものから蔑視されることに対するレジスタンスだけではなかろう。生まれた島は小さいかも知れないがデッカイ人物になるのだという自負があってのことだと思う。大事了畢までは修行をすてないという宗教的情熱に、青年僧の血がたぎっていたにちがいない。修行中に洋学を研究するよう帰寺をすすめられても、住持するよう督促されても、修行をすてなかった禅師は、あとで次のように自誠している。「若し此時、納が俗惰に証されて帰省でもしたら、修行中絶の身となって、自分も師も倶に悪魔の誉相違ない。に危き刹那であった」と。

 のち美濃伊深の正眼僧堂で泰龍文菓老師に参じたが、病を得て上洛、紫野太徳寺の聚光院に寄留することとなった。ここで大徳寺僧堂の儀山善来、水火興聖寺の籠閑古鑑老師に入室する機を得た。ところが生来蒲柳の体質で僧堂の叢規に堪えないので、洪岳宗演首座のすすめもあって、建仁寺の学寮である群玉林で、俊崖東?和尚について内外典を学ぶようになった。禅師二十一歳のときである。余程虚弱な体だったらしく「薪作務で腰がひょろつき両眼がくらみ、倒れそうになった」こともあり、伊深の僧堂で角カの強い天龍の峩山和尚と同参だったときなど、いつも行司か見物に廻るというぐあいであった。 「まるで負傷兵士」と同様だったという慨きに、実情がこもるようである。

 群玉林で勉学する傍ら、教相研究のため、寺町通仏光寺上がる浄土宗聖光寺の神阿上人を訪ねて教えを受けている。二十四歳の秋、病のため一旦故郷の壱岐に帰り、翌年平戸に渡って雄香寺の釣曳玄海和尚に参じた。この釣曳和尚に随って、二十六歳のとき長崎の春徳寺に赴いて、寺主孝道和尚から後席に擬せられたのが、建仁寺派へ転派する機縁となった。翌年転派し、名を宗淵と改め、号を黙富と称した。

 これまで隠山系の越渓守謙、泰龍文菓、儀山善来、籠関古鑑等の諸老に歴参した師は、卓洲下の釣曳和尚を経て、最後に同じ卓洲下の久留米梅林寺の三生軒(猷禅玄達) の門をたたくこととなった。明治十四年から同二十一年、建仁寺派管長の後任としての捧請に応ずるまで、ここで辛参苦修が続けられ、のち三生軒の印記を得た。この修行の過程について、こう吐露している。

  初め諸方に遊びて幾多の辛辣の手を歴犯し、皮膚脱落し尽く。最後に江南に到って痛く瘴
  の毒気にあたり、骨髄粉砕し了る。諸方の辣手はなお忍ぶべし。最も苦きは是れ江南の視C。
  従頭二十年の桔?。畢竟労して功なし。(『暗号密令』上巻・住建仁嗣香語)

と。江南山梅林寺での修行が、左辺亨室内の中核をなしているのは、いうまでもない。建仁寺の請を受けて梅林寺を辞するとき「江南の風月、ついに忘じ難し」とか「夢はめぐらん、西筑の旧道場」などの句が吐かれたのも宣なるかなである。病弱な体だから「朽果てタラ本懐である」と覚悟してはいった、この鬼叢林で師は「身体も壮健と成って来て精神の方も亦剛健」に成ることができたと語っている。蒲柳の体躯は道力によって、力強い筋金入りの体に作りかえられたのである。

管長就任と僧堂開単
 梅林寺の三生軒門下で修行中の師は、明治二十年建仁寺派管長右窓紹球老師から、禅堂再建の任をおびた管長候補として拝請を受けた。無学(妙心)、独園(相国)両管長の手書きによる慫慂もあり、遂に翌二十一年三月上洛ということになった。ところで師を迎えて禅堂再建を図ろうとした建仁守は、当時どういう体制にあっただろうか。

 
明治維新の激変は、どの寺院にも少なからざる打撃をあたえたことはいうまでもない。建仁寺は、当時どういう体制にあっただろうか。建仁寺もほかの五山寺院と同様、封建社会の崩壊によってその経済的基盤を失い、神仏分離・廃仏弊釈によって思想的にも圧迫を加えられた。布教するにしても、三条の教則という統制の粋があって著しく撃肘されていた。こうした苦難のなかにあって、初代管長?叟東蚊和尚(けいそうとうぶん)の発願で、開山堂再建がはじめられた。

 まず明治十年妙心寺玉寵院から客殿を譲り受け、閉山堂の客殿にあて、同十七年関山堂を再建、翌十入年妙光寺の宝陀閣を祖塔の楼門として移建するなど祖塔の旧観を−新した。これら−連の伽藍修理整備事業は、同二十二年に迎える開山千光祖師六百五十年遠諱延修のためだった。明治維新当時には、天章慈英、梧庵鄭林などの勤王僧が、国事に奔走していたが、この頃では動乱の余燼も漸くおさまり、寺僧の関心がうちへ向けられつつあったといえる。

 祖塔の再建、祖師遠諱の厳修は、祖師の精神に帰ることを促し、寺憎に自己反省の機をあたえた。こうしたとき一山の輿望にこたえて来山したのが師である。 ひとまず山内両足院に住職する約束での来山だったが、密かに近江の千手寺に赴いて釣捜和尚に再参請益し、悟後の修行を怠らなかった。「この道まさに地に墜ちんとす。誰か扶起のカを振はん」(『拾遺』−歳晩書懐)と、心中期する所があったからだろう。翌二十二年両足院に帰住し、関山遠諱に際会した。師を拝請した石窓管長は、遠諱の前年に示寂、関山達諱を厳修したのは、第三代管長籠関古鑑老師だった。

 一に籠関、ニに鰲嶺、三に独園、四に敬冲と、当時の済門布教家の最右翼。円転流暢な弁舌の持主。園諱厳修後、師に命じて叢規の復興をはからせた。師はその命を受けて、護国院に山内や高台寺の徒弟十余人を集めて安居結制した.同二十三年大方丈へ道場を移し、同二十四年には霊洞院の文嶺慈運和尚、後住瑞叔竺栄座元の発願で、同院を僧堂常住とすることができた。護国院の庫裡を仮禅堂として、接心のときは、祖塔の前に単をならべて夜坐をするという有様であった。ところが同二十五年春、丹波へ親化中の籠関管長ほ病気のため帰絡、五月五日興聖寺の空華室で示寂するという不測の事情によって、師はそのあとをつぐこととなった。三十九歳の青年管長の誕生である。

 翌二十七年、清水朴宗(建仁寺副住職)、橘鄭林(常光院)、常澄文嶺(霊洞院)三師を発起人に、常澄石門師(大中院)を塔頭総代、安田組戎師(珍皇寺)を僧堂係、都下の檀信徒に会計係、普請係を委任し募縁をはじめた。とき恰も日活戦争にあたり、勧募は予想外の困を強いられた。幸い僧俗の努力により、同三十年大悟堂の工を興し、聖侍寮と延寿堂がまず完成、翌三十一年十一月竣工を見るに至った。東西三十尺、南北四十二尺の木造瓦葺。竣工式筵の偈にいう。

  須弥百億列して柱となし
  刹界三千鋪いて牀となす
  大悟廓然名実備わり
  玲瓏八面露堂堂

 当時の京都各叢林の状況を示す次のような記録がある。(『禅宗』第三十四号、明治三十年十二月)
 ○京都各山専門道場の近況
 臨済宗京都各本山専門道場に於ける現在師家参徒人員数及び提唱祖録は左の如し。

専門道場所在 師  家 参徒人員 提唱祖録
東 福 寺 済門敬冲師 六十人  楞厳経
建 仁 寺 竹田黙雷師 六十五人  槐安国語
南 禅 寺 長山虎叡師 十三人   碧巌録
相 国 寺 中原東嶽師 三十七人  仏光録
大 徳 寺 菅 広洲師 七人  槐安国語
妙 心 寺 小林宗補師 七十二人  碧厳録
天 龍 寺 橋本峨山師 六十人   虚堂録
 
 明治三十年といえば、大悟堂再建途中にあたるが、その盛況ぶりを知ることができる。禅堂を再建することは子院の当時の経済状態では容易でない。それにも増して容易でないのは、師のように三十余年にわたる雲水接化の行といわねばならない。 なおこの頃、師の法徒である古沢文龍氏が建仁寺中に仏教中学校を創建したことが『禅宗』(第二十八号)に記されており、教授陣のなかに、のちの西蔵語学者寺本婉雅、漢学者小柳司気太各氏らの名をつらねており、教学復興の意気が示されている。但しこの方は実際的活動がどの程度であったか判然しないが、禅堂再建とあいまって、山内に活気のあったことは確かである。

 禅堂再建後は各地の聚会親化などに寧日なかったことが語録に詳しいが、ここには省略する。大正二年関山千光祖師七百年遠諱を厳修し、翌三年祖師の遺跡を比叡山に発見し、碑を建ててその遺徳を顕彰した。また山内近末の境致荘厳に意をつくし、明治三十九年には山内に敷石を設け、明治四十四年高台寺本堂を建て、大正五年「左辺亭」 (現、雲居庵)を高台寺祖塔の南に設け、同六年高台寺の庫裡竣工、同十一年霊洞院の庭池に石橋を架設、同十二年遠江安寧寺から三門を購入し、翌十三年移建完成を見るなど努力するところが多かった。

 老師ほ深い道力に加えて、教相にも通じ、詩文に堪能であったことは、語録を一見すればよくわかる。そのうえ徳望があったから、その
門下に集まる居士大姉の層も、軍人、華族、学者、神官、医師、実業家、茶人、画家、陶工等と幅広く、しかも一流の人物が多かった。勿論それらの社会的地位と宗教的体験の浅深とは別個であるが前記の藤田玄路、内村退帚両居士は出色であった。このほか印記を受けた信者は、岡本南海居士(通)、都路華香画伯、異色は画伯の実妹、茶人の妙珠大姉(光子)。印記を得た大柿の存在は、凡庸な禅僧の惰眠をさまさせるものが充分ある。これらは別格として次に参禅の居士大姉を眺めて見よう。清水六兵衛、伊東陶山、諏訪蘇山、宇野五山等の陶工は、比較的寺域に近く住んでいたから、特に師に親炙していた。開山堂楼門に安置の観音像は、宇野五山の作で、十六羅漠陶像とともに、いまもなお優美さを誇っている。田村月樵画伯は、丹波園部の出身で、この頃知恩院の前に住み、師の門をくぐっていた。中居?谷画伯、実業家の大村梅軒(彦太郎)、学者の仁科亀松、佐佐木惣一、末広重雄、外科解剖学者猪子止戈之助、医師の武蔵勇庵」勇軒父子等多士済済だった。これらのうち、参禅弁道、切磋琢磨を誓う集まりを「東山会」といい、左辺亭−古渡俺−金剛窟と三老師にわたり現在に至るまで、その輝かしい伝統を保ち続けている。

 
茶人黙雷という世評がある。これを流儀に拘束される茶人と思うのは、見当ちがいである。茶禅一味を接化の手段とした活作略と見なければ、その真意はつかめない。「禅の正味をムキ出して話すのは、ちょうど歯のない者に餅を喰わすようなもの」だから、「抹茶でも啜りながら俗談平話のうちに禅味を嘗めさせる」のがいいという態度である。陶工との交わりがあり、茶器の手造や絵つけにも雅味はあるが、茶器の銘のつけかたに、季節感をにおわすという純茶人風のものが少ない。たとえば赤楽茶湾?に竹の絵をかいて「香厳竹」と銘をつけたり、肉太で大型な野趣味のある茶杓に「竹箆=しっぺい」と名づけたりしてある。絵や字のおさまりがいいだけ、かえってこの頑なまでの禅味が異彩を放っている。

 師はまた隠寮の「不二室」で、ことあるごとに喫茶を嗜んだ。これを知っている茶道具商、土橋永昌堂は、明治四十四年、富野窓茶席を岡林院南庭に、魂瓦席茶席を高台寺に建てた。尤もこのうち富野窓の茶席は、のちに鬼瓦席の北の現地位置に移建されている。同年藤田玄路居士も岡林院に茶席を建てて「深居」と号し、ともに師に供した。

 
日本の茶祖といわれる栄西禅師を開山といただく建仁寺では、喫茶精神の鼓吹は、祖恩謝徳とひいては布教伝道にもつながる。『暗号密令拾遺』によると、明治二十六年にこの趣旨に副って『献茶会募疏』がつくられ、毎月五日の祖忌に茶筵を設けることがはじめられた。これが大正二年の開山遠諱に裏千家家元の献茶式となり今日に至っている。

 次に一般に馴染深い
隷書体の書風のことだが、師は若いころ書が巧みでなかったから、特にこの書風に心をくだき独特の風格をそなえるようになったといわれる。画は構図としては初祖像、竹図等が多く、いずれも禅機が横溢している。 応化自在な師の周辺を眺めてきたが、最後に焦点を円心に向けよう。大正六年三生軒の遷化にあたり、その遺命により、大生寺の雄州、月桂寺の華岳、承天寺の独鳳(前永源管長)、養緊寺の雪堂、梅林寺の瞎禅(香夢室)五師に印記を附すなど、三生門下の上足として大きな存在であった。また先輩格の南天棒(郊州全忠・白崖窟)に法の安売りを誡め、帥家に必要なのは見識で、棒や如意などは邪魔ものだと直言して捨てさせるなど機峰梢峭峻だった。

 南天棒の携帯を中止さした時、衲は彼が、山岡鉄舟の崇拝者たるを知って居ったから、御妨は山岡の崇拝家であるが、彼は剣道の達人で、最初は有剱流であったが、禅機の発達と倶に 無剱流となり、最後には無手勝流となった。居士猶ほ然りだ。然るに御坊は坊主の癖に南天 の棒など持って歩くなんか、山岡に譲る既に数歩だ、と言った処が、根が正直にして純朴なる披は忽ち其棒を投じて見せたという。
明治中葉、宗匠検定法を提案、天下の師家を再試験しようとした南天棒と左辺亭の出合い、蓋し壮観というべきだったであろう。昭和三年建仁寺僧堂師家を法嗣の古渡にゆずり、昭和五年中井慈眼居士が隠寮として新築した「左辺亭」に居を移すこともなく、同年十一月十五日示寂された。世寿七十七。遺偈に日く。

 風縄雪井 七十七年
 転身回顧 過犯弥天


と。法嗣に寿仙時保(元建長管長・曇華室)、耕道自耘(輟耕室・佐賀万寿寺)、穎川恵拘(元建仁管長・故渡庵)、実秀宗真(万休室・高台寺)、石雲正琳(建仁・禅居庵)、耕承訓(はじめ自訓・?月俺。相国・大光明寺)、謙応祖恭(妙心・福寿院)等の藷老師がある。完