省略が生んだアトムの世界 アニメは手塚治虫の「発明」だった 口常識破りの手法 「『アトム』はアニメーションではなく、アニメです」手塚は虫プロダクションのスタッフの前でそんな持論を語った。劇場用アニメが「まんが映画」と呼ばれていた時代だ。「アニメーションをただ略しただけでは?」。スタッフの一人で、その後「タッチ」や映画「銀河鉄道の夜」などを監督した杉井ギサブローさん(72)は、手塚の真意が分からなかったという。 東映動画(現・東映アニメーション)を経て虫プロ設立に参加した杉井さんは、幼少期にディズニーの「バンビ」を見てアニメ制作を志した。手塚は大のディズニーファン。「すごい作品を作るはず」という期待とは裏腹に、手塚は常識破りの手法を次々と採用した。セル画の枚数を減らすため、背景や動画を使い回したり、口や足といった体の一部だけを動かしたり…。手塚が「アトム」で目指したのは、米国でも試行されていた「リミテッド・アニメーション」の省略と合理化だった。 口新旧交差の現場 「一番はじめのころは、30分を7人くらいで作っていた。東映動画では200人ほどで描いていた時代。驚異的なシステムだった」セル画の多い「フルアニメーション」を経験してきた杉井さんは「紙芝居じゃないか」と困惑した。しかし、完成した一話を見て感想は一変する。「物語性を前面に出せば、動かなくても面白い。ショックだった」 最高視聴率は40%超。おもちゃや文具といった関連商品が次々と発売され、他社も相次いでテレビアニメに参入するきっかけとなった。「手塚先生は『アトム』を"発明"し、日本に『アニメ』という産業を作り上げてしまった」と杉井さんは振り返る。 「手塚先生の本性は漫画家でもアニメ制作者でもなく、物語作家。物語を伝えることに大きな興味があったからこそ、思いついた手法でしょう」。「機動戦士ガンダム」シリーズの生みの親、宮野由悠季(よしゆき)さん(71)はそう語る。 宮野さんも昭和39〜41年、アトムの演出などを手がけた一人だ。外部プロに作画を注文する作業も担当した。外注先には、日本初のフルセル画アニメ「くもとちゅうりっぷ」を手がけ、「日本のアニメーションの父」と呼ばれる政岡憲三といった大御所もいた。 「大アニメーターに向かって、手塚先生がアトムの描き方を講義する。僕はその橋渡し役ですから、ある意味ひどい目にあった。しかも、できあがってきたものは極めてクラシックで、リミテッドの方法と根本的に違う」と、当時の困惑を懐かしそうに語る。 実写志望だった宮野さんは「アトム」の簡略表現に違和感も覚えていた。「外注で『古くていい仕事』を見ることができたのは大きかった。『物語がしっかりしていれば動かなくてもいい』と思う一方で、同じ漫画絵を動かすにしても、これだけ幅があると知った」 独立してアニメーターとして活躍したり、制作会社を作った虫プロ出身者は多い。新旧文化と技術が交差する「アトム」の現場は、創造的な"学舎"でもあった。 口再ぴ常識突破へ 日本動画協会によると、年間に放送・公開されるアニメは、テレビと映画合わせて200作以上、関連商品を含む市場規模は1兆3千億円以上。「アトム」から半世紀、日本は世界有数のアニメ大国となった。 ただ、富野さんは「人々がテレビアニメという媒体が抱える間題を疑わなくなった。蛸壼にはまってしまっている」と苦言を呈し、「物語をいかに作るかで勝負しないと」と訴える。前出の杉井さんは、デジタル表現の進化やネットの普及に触れ、「ほかのメディアと同様にアニメも変わらざるを得ない。手塚先生が自由な発想で時代とシンクロしたように、また、新しい挑戦ができる」と話す。 より時代に即した「伝える」方法を探して、常識に挑む。そんな手塚のDNAは、新しい時代にも求められている。 |