岳ノ辻(たけのつじ)今昔
馬渡路伊
岳ノ辻は標高は212・9mに過ぎないが壱岐第一の高地である。昭和44年9月10日、今上天皇皇后両陛下御来島
の折り(当時は皇太子、皇太子妃)展望台に立たれ島を一望された。
この展望台はコンクリート製で陸屋根部分に手摺りを設けた素朴な物であったが、空気が乾燥した冬の日には遠く対馬も肉眼で見ることが出来た。山が辻と呼ばれるのは、古来から交通の要衝であったのであろう。島中央部の角上山114・3m。北部の男岳は156mに過ぎないが山、岳の名である。昭和11年、故梨本宮殿下の御足跡もあり、多くの文人墨客が訪れた地でもある。
岳ノ辻が史書に現れるのは中大兄皇子(天智天皇)が百済救援に大軍と救援物資を朝鮮南岸に送り、唐・新羅連合軍と戦って四百隻の船団を失った白村江(ハクスキノエ)の戦い(663年)の後、唐・新羅の侵攻を恐れて国防強化に乗り出したわが国が、664年対馬、壱岐、筑紫に烽や防人を配置し、太宰府には水城(大堤)を築城した。
岳ノ辻の烽火台は瀬戸と並んで対馬の大山岳〜竜良山の煙(夜間は篝火(かがりび)を受け、松浦・糸島などを経て太宰府に信号が伝えられた。元冠(文永の役1274・弘安の役1281)の頃の肥前守護、北条定宗の命令書「来島文書」に「大島には、壱岐島の煙を守りて、その時を違えず烽(トブヒ)あまた焚くべき互いに火の光、煙を守りて焚かるべし。大島の火を見て鷹島にたた継ぐべき云々」とあり、この間の伝達遵守を固く命令している。
発煙材料として「蓬ヨモギと芝」が使用とあるが、私は着火初期の発煙材として多量の乾燥蓬、次に柴が使用されたと推測している。往時の岳ノ辻照葉樹林を伐採して、烽火を焚いたので、野芝地になったのであろう。防人の任期は三年で当初、東国各地から派遣されて壱岐には百五十人程配置され、監視、巡察、築城、烽火が任務であった。烽長二名で複数の烽台を管理し、,一台に四名の烽子が就き、二名一組で十二時間勤務、任期一年、無給で離脱は許されない厳しい勤務であったという。737年に東国防人は廃止されて、筑紫の防人が壱岐対馬の守りについたが、804年に壱岐対馬の防人は廃止され、地元島民兵が任務についた。
815年異賊が来襲し816年に二関、十四箇所の火立場が置かれた。新羅・高麗・女真・奄美・刀伊賊の来冠など壱岐の被害も多かったが、1330年頃(室町幕府時代)から倭冠が台頭し、壱岐海賊も高麗・中国沿岸に進出した。幕末には、異国船に備え勝本浦の押役所や若宮島遠見番所と共に岳ノ辻遠見番所が強化された。大正八年壱岐要塞の新設が決まつて十五年壱岐要塞司令部が新設され昭和十三年全島の要塞整理工事が終了。太平洋戦争勃発後、砲台の補強、偽装、掩体構築が略々完了し、海軍聴測隊との協力体制を確立して日本海への米潜水艦の侵入を阻止している。
岳ノ辻の洞窟は、要塞重砲連隊の戦闘指揮所となり、頂上は対空監視所として防空の最前線であった。大戦末期制空権を失って岳ノ辻に火や煙の発生は厳禁となった。今はアンテナ山として、その責を果たし観光のスポットとしての価値も大きい。(おわり)情報源:壱岐日報H18('06)1.26(木)
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