情報源:日本の息吹(平成二十三年三月号)
子供達に伝えたい日本の誇りー7つのポイント《後編》
〜独立日本の衿持〜 上智大学名誉教授 渡部昇一
次代の子供たちを育てる歴史教科書は、日本人としての誇りを持てるような内容のある教科書を選んでほしい。
Q 「子供達に伝えたい日本の誇り〜7つのポイント」ということで、前編では、@「一国一文明の国」、A「神話に起源を持つ皇室が現代も国の中心である国」の2つについて、お話しいただきました。後編は、残りの5つのテーマについて、お伺いしたいと存じます。
☆シナ大陸に隷属したことがない国
渡部 シナの周辺諸国は、ほとんどがシナに朝貢した歴史を持っていますが、唯一、日本だけが例外でした。隋という鮮卑族の巨大な王朝が出た時に、日本の皇室は初めて大陸シナと国交を開きますが、聖徳太子は、全く対等の国書を寄せています。「日出(いづる)処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」と。これ以降、我が国は、シナに従属することなく独立国家としてのアイデンティティを保持してきたのであり、その意味では、これが出された推古天皇15年(607)こそは、日本の自主外交の始まりとして銘記されるべきでしょう。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した「文禄の役」の後、当時のシナの王朝であった明から使者が国書を携えてやってきます。「汝を奉じて日本国王となす」と。明としては李氏朝鮮がそうであったように、周辺諸国に「王」という位を与えれば、ひれ伏してありがたるだろうと思ったわけです。ところが、秀吉は烈火のごとく怒って、再び兵を出しました。これが、聖徳太子の時代から大陸には絶対に隷属しないという日本人の気概なのです。
Q ところが、いま、その聖徳太子以来の独立が脅かされようとしています。仙谷官房長官(当時)は「(中国への)属国化は今に始まったことではない」と述べていたことが国会で暴露されました。(*1)
渡部 1400年にわたる独立の伝統を、自ら進んで捨て去ろうとする人々は、つまりは、中国の手が回っているか、手の回っている人の手が回っているか、だと思いますが、今こそ、日本人は1400年の独立の伝統に立ち返り、これを守らなければなりません。
☆神仏調和の国
Q それにしても、アジア諸国のなかで、なぜ日本だけが、シナからの独立が可能だったのでしょうか。
渡部 ひとつは日本が島国だということです。海という自然の要害が緩衝地帯となって、大陸からの直接的影響を緩和してくれた。2つ目は、民族のアイデンティティの核としての皇室と神社を大事にしてきたことです。このことは前回触れたとおりです。3つ目は、神仏習合に象徴的なように、外来の思想や文物を、土着の文化とうまく融合させる智恵を持っていたことです。
ここでは、3つ目の点について、述べてみましょう。世界の3大宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教という超国境宗教は、各地の土着の宗教を潰しながら勢力を拡大してきました。しかしながら、日本では、古代においては仏教、近世・近代においてはキリスト教が入ってきても、日本の神道は滅びることなく、伊勢神宮の参拝者は近年益々増えています。こうした土着の民族宗教が堂々と残されているのは、世界に例がない。ですから、前回申しあげたように、日本は一国家で一文明圏なのです。
一方、キリスト教はともかく、仏教は、日本に深く根を下ろし、神道と共存共栄してきました。どうして、こんな奇跡的なことが起きたのでしょう。仏教が、最初に日本に入ってきたとき、これを受け入れるかどうかで、豪族間で争いが起きたり、仏教に帰依される天皇もおられた。しかし、大事なことは、決して古来の神道から外れたわけではなかったということです。
聖徳太子の十七条の憲法には、「仏法僧を敬え」(*2)と仏教のことは書いてあるのに、神道のことはどこにも出てこないじゃないかと言う人がいますが、これは当たり前です。当時の人々にとって、宗教といえば神道というのが当然の前提であって、これを大事にするのは常識だったから敢えて書く必要がなかったのです。
とはいえ、仏教は、強力な超国境宗教ですから、放っておけば日本の土着の信仰は、呑み込まれないとも限らない。そこで、日本人が智恵を絞ったのが、本地垂迹説という考え方でした。
本地とは「本当の」、「垂迹」とは、「降りてくる」ということで、即ち、日本の神様は、仏教の仏様が降りてきたと考えたのです。たとえば、日本の天照大神という神様は、本地たるインドの大日如来という仏様が垂迹したものだと。
この考えが、さらに進むと、宇宙の聖なるものが、インドに降りて大日如来となり、日本に降りて天照大神とし
て現れたのだという考え方になります。
これは、現在の比較宗教学の原点となる考え方と同じです。比較宗教学の権威ミルチャ・エリアーデは次のような趣旨のことを言っています。
「聖なるものがあるとすれば、地球上のどこにでも公平に現れなければならない。各民族の文化程度によってその受け取り方が違っているため、現れ方は異なってはいるが、どの宗教にも聖なる断片はあり、それが豊かにあるのか少ないのかの違いにすぎない」と。つまり、日本人は、千何百年も前に、比較宗教学のエッセンスを先取りしていたことになります。
参考:一ノ宮巡拝会の心:http://www.ichinomiya.gr.jp/JunpaiKai/HTML/SEKAISHUKYOYUGOU.html
そして、「こうした発想がなければ、宗教戦争は終わらない」と言ってよいのではないでしょうか。日本には宗教戦争はなかった。古代から現代に至るまで、人類を救うはずの宗教が戦争の元となってきたのが人類の歴史といっていいくらいですが、日本のこのあり方は、世界平和に重要な示唆を与えているのです。
☆武±道を生んだ国
渡部 ルース・ベネディクトが言ったように、日本は「菊」と「刀」の国です。王朝の雅(みやび)と武家の質実剛健の気風が並存し支え合ってきた文武両道の国です。どちらが欠けてもいけない。
お隣の李氏朝鮮には両班(やんぱん)という貴族がいて、初めのころは、両班には文班と武班とがあったが、やがて、武班はほとんどなくなった。だから秀吉軍は平壌まで行くことができた。
Q 両方が必要なわけですね。
渡部 両方が非常に発達した形であったというところが素晴らしい。「菊」の時代の平安時代には、女性の作家、歌人が多く輩出した。鎌倉時代から戦国時代にかけて、あれほど命を惜しまぬ武士がいた国も珍しい。
Q 元冠のときは、朝廷の祈りと武士の奮戦が国を救いました。
渡部 武士の奮戦あってこその神風でした。靖國神社遊就館の元冠展(*3)の絵画にもありましたが、小弐景資(しょうにかげすけ)など武士たちの奮戦が目覚しかったので、元軍は船に引揚げた。そこへ、台風が来たというわけです。夏から秋にかけての時季ですから、必ず台風はきます。しかしそのときに元軍をして洋上に止まらせていたのは、鎌倉武士の奮戦あったればこそです。その精神は後の特攻隊にまで続いています。
☆西洋文明に伍し、人種平等への扉を開いた国
渡部 かつて南アフリカにはアパルトヘイトという強烈な人種差別がありましたが、19世紀の世界は、いわば世界全体がアパルトヘイトでした。それがいかにすさまじいものだったか。いわば、進化論的に人種にも発達段階があり、白人、黄色人、褐色人、黒人の順序でランクが下がると考えられていた。白人とその他の有色人種との差は、人間と猿との違いくらいだった。今日ではそれが何の科学的根拠もない偏見であることは明らかですが、当時は、それを思い込ませるだけの目に見える圧倒的な差があった。
それは、科学技術の差でした。白人の世界制覇をもたらしたのは、科学技術の優位であり、青い目の白人でなければ、自然科学や近代工業はできないと世界中が思い込んでいた時代だったのです。恐ろしいことに、白人に支配された有色人種自身がそう思い込んでいた。ですからこの白人支配の世の中は半永久に続くかと思われていた。ところが、そう思い込まなかった国が世界にたった一つあった。それが日本だった。
Q 自分たちにもできると日本人だけが思った。
渡部 明治4年から6年にかけて、岩倉使節団が米欧を回りますが、やはり最初は驚きます。当時は、ナポレオン戦争が終わってすでに50年経っていましたから、鉄道や近代工場に仰天するわけです。ところが、そこから先が日本人は違った。彼らはこう考えたのです。「日本はどれくらい遅れているか」と。そして「50年くらいだろう」と結論を出して「それなら追いつける」と。
これも、日本人のDNAです。他国のすぐれた文物を吸収昇華して自家薬籠中のものとすることが得意です。古代の大仏鋳造や近世の鉄砲伝来のときもそうでしたし、この幕末明治の近代文明との出会いのときもそうだったのです。
そして富国強兵に邁進したところ、40年経たない内に追いつき追い越してしまったのです。日露戦争がその証左です。当時のロシアは、ナポレオンを追い返したほどの強国です。その大国ロシアが日本に歴史上ないほどの負け方をする。難攻不落の旅順が落ち、奉天の大会戦でも完敗し、バルチック艦隊がほぼ全滅する。それで被植民地諸国は目を開いた。インドのネール、インドネシアのスカルノ、ベトナムのファンボイチョウ、そしてシナの孫文や清朝改革派たちもそうでした。
これらの国々から日本へ命がけで渡航し、学ぽうとする者が出てきた。清朝は隋の時代から続いている科挙の制度をやめて、日本留学を高級官僚の資格の一部にするほどでした。そして、この白人優位を打ち破った流れは、大東亜戦争によってさらに促進され、もう後戻りはできませんでした。
1945年の設立当初51カ国にすぎなかった国連加盟国数は、1965年には118カ国となり、今日では、192カ国にまでなっています。日本なかりせば、20世紀も21世紀も、あるいは22世紀、23世紀までも白人が支配者で有色人種は被支配者、つまり色の薄い方から、黄色は召使、黒と褐色は奴隷という構造は動かなかったでしょう。
コロンブスの新大陸発見を世界史の大事件とするならば、そのコロンブス以来の数百年の世界史の構造をひっくり返したわけですから、日露戦争はそれに匹敵する世界史的事件なのです。日露戦争以降は新しい植民地は世界にひとつもできていません。
☆言霊の幸う国
渡部 これは、日本は大和言葉を大切に持ち続けたということです。山上憶良の長歌「好去好来歌」(万葉集巻第五)には次のような一節がある。
「神代より言ひ伝(つ)て来(け)らく そらみつ倭(やまと)の国は皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と語り継(つ)ぎ 言ひ継(つ)がひつつ…」
これは日本のアイデンティティの宣言ともいうべきもので、ここで憶良は、2つの日本像を謳っています。ひとつ
は、「皇神の厳しき国」であり、もうひとつは、「言霊の幸はふ国」である。
前者は、万世一系の尊い国であることを言っていて、これについては前回述べました。後者は、言霊の威力が発動する国であると言っています。柿本人麻呂の歌(万葉集巻第十三)に、
「礒城島(しぎしま)の大倭(やまと)の国は言霊の助くる国ぞ まさきくありこそ」
というのがあります。古代の日本人は、言葉そのものに霊力が宿り、言葉を発すること自体に物事を動かす力があると信じていました。そして、言霊は、外来語(当時は漢語)ではなく、日本古来の大和言葉に宿るとされたのです。
先に日本がシナに従属しなかった理由を述べましたが、もうひとつ付け加えると、国語の独立ということがあり
ます。古代の日本人は文字として漢字を導入したけれども、漢字の音だけを借りて日本語を表現する方法を編み出した。この音読訓読は日本の大発明でした。万葉仮名は、漢字を音標文字として利用した。つまり、漢字の元の意味など全く無視して音(おん)だけを借りた.そして、次に、かな文字を発明すると、瞬く間に、「源氏物語」のような世界最初の大小説を生むわけです。
万葉集も源氏物語も、官職名などを除けば漢語はほとんどなく、ほぼ百パーセント大和言葉で書かれています。さらに、すばらしいことは、現代の日本人はこれら1000年以上も前の古典を読めることです。これがいかにすごいことかは、他国と比較してみれば分かります。
例えば、英語は、ギリシャ、ローマの影響が強い。英字新聞の単語の7割は、ギリシャ語系かラテン語系といっていい。これは日本でいえば、漢語がとても多いということです。一方、オールド・イングリッシュと言って、日本の大和言葉にあたるイギリス固有の言語がありますが、これは現代のイギリス人は読めません。もはや専門家にしか分からない。ところが、日本では小学生でも万葉集が分かる。
ですから、小字校では、英語教育よりも、国語、とくに古典の名文や名歌を覚えさせてほしいものです。内外ともに国難とも言うべき時代ですが、今回述べました7つのポイントなどを参考に、一国一文明の揺ぎない自信を後世に伝えていきましょう。
注記
(*1)自民党の丸山和也議員が、尖閣事件での中国人釈放問題について、日本が中国の属国になる」と仙谷官房長官に電話で懸念を表明したところ、仙谷官房長官が「属国化は今に始まったことではない」と応じていたことを、平成22年10月18日の参議院決算委員会で、暴露した。(読売新聞より)
(*2)「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧なり」(十七条の憲法)
(*3)靖国神社遊就館特別展「神風 そのふきゆくかなたへー蒙古襲来と国難に立ち向かった護国の戦士たち」(昨平成22年3/20-12/8)は、御創立140年を記念して修復した矢田ー嘯(しょう)画「蒙古襲来油図」を展示。
|