情報源=産経新聞H27.4.3



昭和20年4月15日の朝、新聞を読んでいた岐阜県川辺町の岩井伴一さんは、突然立ち上がり、叫んだ。「遅かった、遅かった。サダが逝っちまった」悲鳴は家中に響いた。この日の新聞に特攻隊の出撃を報じる記事が載り、その中に次男の定好(さだよし)伍長=当時(19)、戦死後少尉=の名前があった。陸軍少年飛行兵で、第103振武隊員として2日前、鹿児島県の知覧飛行場から出撃し、沖縄海域で特攻を敢行した。

岩井家では長男の千代司さんが18年3月5日、ソロモン諸島で戦死していた。伴一さんは妻
のよしゑさんの気持ちを慮(おもんぱか)り、戦死公報がくるまで内緒にしようと新聞をその場で燃やした。だが、よしゑさんは定好伍長の戦死を知るごとになる。長男の戦死から立ち直りかけていたよしゑさんのショックは大きった。定好伍長の弟、鍼男(かえづお)さん(86)は「1週間で髪の毛が真っ白になってしまった。兄貴の死を受け入れられなかった」と振り返る。

よしゑさんは風の音がするたび、息子を出迎えるように庭や玄関を見やった。畑仕事の最中に飛行機が上を飛ぶと「サダが乗っとらんやろうね」とつぶやき空を見上げた。「5本ある指はどれを切っても痛い。親にすれば、子供を一人でも亡くせば悲しいものだ」と繰り返しては涙ぐんだ。

定好伍長から届いた最後のはがきには「最後の音信元気で行きます。御両親も御身体を大切に皆様によろしくさようやら」と書いてあった。「さようなら」が「さようやら」に。よしゑさんは動揺する息子の心中を察したのか、表情をゆがめ、苦しそうにしていた。

よしゑさんは29年6月、脳出血でこの世を去った。60歳。「これでやっと千代司とサダの所に行ける」。最期によしゑさんが見せた表情は、定好伍長の戦死を知って以来、初めて穏やかなものだったという。

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伴一さんは定好伍長に何度も「お前は跡取りだから」と手紙を出していた。銭男さんは「長男を戦争で失ったおやじは、兄貴を跡取りと決めていた。文言には『特攻だけには行かないでくれ』という意味が込められていた。時局柄、そうは書けないから、言葉を選んで自分の気持ちを伝えようとした」と話す。手紙の意味を読み取ってくれとひたすら願っていたが、届かなかった。

「もっと早く手紙を出しておけば本心が伝わったかもしれないという気持ちが思わず『遅かった』という言葉になったのだろう」と鍼男さん。父親の落胆は大きく、急に老けたという。

長男の遺骨は戦地から戦友が運ぶ途中、船が撃沈され、伴一さんの手元に届かなかった。それでも戦死の様子は戦友から聞けた。だが、定好伍長の最期については全く情報がなかった。どこで突撃したのか、言い残したことはないのか…。次男の最期が分からない無念さと悲しさが入り交じった日々を送った。

2人の部屋を掃除しようとすると、父は「そのままにしておけ。帰ってくるかもしれない」と言って、触らせなかったという。

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日本が戦争に敗れると、特攻隊の親に追い打ちをかけるように環境は変わった。鍼男さんは振り返る。「おやじは『米軍が来る』『証拠書類になる』と言って、遺品の鉢巻きやアルバムを全部燃やしてしまった。特攻隊に入っていたことをひた隠しにしていた。おやじはおびえていた。

唯一残したのは純毛製のセーターだけで、ぼろぼろになってもいつも身につけていた」"敵"は米国だけではなかった。次男が特攻隊員だった岩井家に対する周囲の目が敗戦で一変した。「戦時中は軍神とたたえられたが、戦後、私も復員した兵隊に『特攻隊に行くような者はクソダワケ』と言われた。

一番ばかにした言葉だ。その時は私も、兄貴は犬死にだったかなって思った」
(編集委員 宮本雅史)



「誰のため逝ったのか」
神雷部隊第5建武隊に所属していた愛媛県出身の曽我部隆(たかし)二飛曹=当時(19)、戦死後少尉=は昭和20年4月11日、500キロ爆弾を抱えて鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、喜界島南方で米機動部隊に突入した。10人きょうだいの六男だった。

曽我部家では六男の隆二飛曹だけでなく、次男と三男、七男が海軍へ進み、全員戦死した。七男は隆二飛曹が特攻を敢行した8日後の戦死。長男と四男、五男は陸軍の道を選び、全員生還した。愛媛県西条市に住む八男の勲さん(84)は父の末蔵さんについて「父は息子4人が戦死したことに愚痴を言ったことはなく、気丈に振る舞っていた。でも、寄る年波というか、おいおい酒の量が増えていった」と話す。

母のツヨさんは13年、長女を産むと病死した。勲さんは当時8歳。末蔵さんはその後、男手一つで10人の子供を育て上げた。「妻に死なれて、子供もこれだけ死なれたら、大概の者は挫折すると思う。母親は乳飲み子を残して亡くなったから、父親は苦労したと思う。母親が生きていたら気が紛れただろうに、一人で耐えて生きた。父親の気持ちを考えると、私は血の小便をしてでも家を守ろうと誓った」勲さんは父の生きざま、自分の戦後70年をこう振り返った。

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「海軍神雷部隊」(海軍神雷部隊戦友会)に収録されている一通の追悼賦がある。「朝露よりももろく私達から消えてしまった。四階級特進という栄誉も、靖国の母という誇りも、一切は敗戦によって遠い夢の彼方に置かれてしまった」「あれから幾年月、人前では流せない涙で幾夜枕のぬれたことか。遺品を受け取れとの通知に、首を長くして待ちに待ったが、とうとう遺品は何一つ帰って来なかった」

「同級だった方や、同じ年頃の青年を見るにつけ想い出しては涙ぐむ、偲んでは涙ぐむ母さん。せめて少し豊かな人生を味あわせて(原文ママ)やりたかった。『幽明 境を異にして、呼べど、呼べと、声なき敏郎よ!』


20年4月14日、第4神風(しんぷう)櫻花特別攻撃隊神雷部隊として出撃、徳之島東方海域で戦死した山崎敏郎二飛曹=戦死後少尉の母の追悼賦だ。息子が戦死して7年後に書いたもので、切々と心中を吐露している。

そして、こう続ける。

「唯『お国の為に何の惜しけもなく若い命を捧げた』その事については、母は未練は言いません。終戦以来の混乱で尊いお前達の犠牲が世の中の人々から忘れられていても、新しい日本建設の蔭に
は、尊い幾百万同胞の生命がかけられていた事を、国民の一人一人が泌々と思い起こし、その死を決して無にしないよう努力するのが残された私達のつとめであると思います」

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連載1回目で紹介した特攻隊員、荒木幸雄伍長=当時(17)=の母、ツマさんのもとに、荒木伍長から最後の手紙と遺髪が届いたのは20年5月末のことだった。「母は、遺髪を抱いて弟の名前を呼び、泣き叫んだ。父は体を震わせて一言もしゃべらなかった」

兄の精一さん(88)は、母が涙をあふれさせて「ユキは突っ込むとき、どんな気持ちだったんだろう」と独り言を口にする姿を何度も目にした。荒木伍長の自宅に戦死公報が届いたのは、終戦から4カ月後の20年12月。翌21年4月20日、戦没者合同市葬が行われたが、連合国軍の目を気にしてか、葬儀は遺影も花輪もなかった。

精一さんは憤慨する。


「弟の軍刀をトイレの天井に隠しておいたら、誰かに密告された。父が始末書を書いて、警察に没収された。弟は誰のために、何のために逝ったのか」さまざまな思いを胸に秘め、出撃していった特攻隊員。出撃を見送った両親は、息子が国家のために散ったと誇りに思いながらも、手塩にかけて育てた子供を失った傷は生涯、消えることはなかった。怒りと寂しさをぶつける相手もなく、ただ、耐えるほかなかったのだ。


坂口安吾のエッセーGHQが掲載禁止
「特攻」は、これまで戦記や小説、映画などに数多く取り上げられてきた。連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和22年、坂口安吾はエッセーで、苦悩しながらも国に殉じた特攻隊を熱烈に賛美。特攻
が強要であったとしても「平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花朕きうるという希望は日本を世界を明るくする」とつづり、GHQにより掲載禁止とされた。

31年には、隊員の出撃までの日常などを日記体で描いた阿川弘之の「雲の墓標」が刊行される。高度成長期の46年に刊行された大岡昇平の「レイテ戦記」は「悠久の大義の美名の下に、若者に無益
な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分がある」と断じる一方、死への苦悩を克服し戦果を挙けた事実に「今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない」とたたえてもいる。

元特攻隊員自身が、死を恐れながらも出撃を待ち望む、相反する心中を描いている作品も多い。一方で、特攻隊を自己犠牲の象徴として美化し、感傷的に仕上げた作品も少なくない。
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