長い後書き

 私はまぎれもなく田中角栄の金権主義を最初に批判し真っ向から弓を引いた人間だった。だから世間は今更こんなものを書いて世に出すことを政治的な背信と唱えるかもしれぬが、政治を離れた今でこそ、政治に関わった者としての責任でこれを記した。それヘーゲルがいったように人間にとって何よりもの現実である歴史に対する私の責任の履行に他ならない。私たちは今、「現代」という現実の歴史の中にその身を置いている。

 その現代という私たちにとって身近な歴史的現実が、アメリカという外国の策略で田中角栄という未曽有の天才を否定し葬ることで改竄されることは絶対に許されるものでありはしない。ロッキード裁判という日本の司法を歪めた虚構を知りつつ、それに荷担した当時の三木総理や、トライスターなどという事例よりもはるかに大きな事件の山だった対潜哨戒機P3C問題を無視して逆指揮権を発動し、それになびいた司法関係の責任者たちこそが売国の汚名のもとに非難糾弾されるべきだったに違いない。

 今私たちは敗戦の後に国家にとっての第二の青春ともいえる高度成長を経て、他国に比べればかなり高度な繁栄と、それが醸し出す新規の文化文明を享受しているが、その要因の多くは国家の歴史の中でも未曽有のものに違いない。そしてその多くの要因を他ならぬ田中角栄という政治家が造成したことは間違いない。

 例えば国民の多くのさまざまな情操や感性に多大な影響を与えているテレビというメディアを造成したのは他ならぬ田中角栄という若い政治家の決断によったものだし、狭小なようで実は南北に極めて長い日本の国土を緻密で機能的なものに仕立てた高速道路の整備や、新幹線の延長配備、さらに各県に一つずつという空港の整備の促進を行ったのは彼だし、エネルギ資源に乏しいこの国の自活のために未来エネルギの最たる原子力推進を目指しアメリカ傘下のメジャーに依存しまいと独自の資源外交を思い立ったのも彼だった。

 そのために彼はアメリカという支配者の虎の尾を踏み付けて彼等の怒りを買い、虚構に満ちた裁判で失脚に追い込まれたが、その以前に重要閣僚としてアメリカとの種々交渉の中で示した姿勢が明かすものは、彼が紛れもない愛国者だったということだ。いずれにせよ、彼の先見性に満ちた発想の正確性を今日の日本の在りようが歴史の現実として証している。

 端的にいって政治家個人としての独自の発想でまだ若い時代に四十近い議員立法を為し遂げ、それが未だに法律として通用しているという実績を持つ政治家は他に誰もいはしまい。感性の所産である芸術はしぼしば天才を生み出すが、政治という感性の不毛な世界で彼のようなまさに未曽有の業績をものした人物は少なくとも戦後には他に見られはしない。

 私がこれを書くことになったきっかけは、私が政治から引退した直後に早稲田大学文化構想学部の教授・森元孝氏が『石原慎太郎の社会現象学亀裂の弁証法』という、政治家であったがために不当に埋没させられてきた私の文学の救済となる労作をものしてくれたことだった。その著者への感謝のために会食した折に、氏が「貴方は実は田中角栄という人物が好きではないのですか」と問うたものだ。私はそれに肯んじた。

 「確かに彼のように、この現代にいながら中世期的でバルザック的な人物は滅多にいませんからね」。答えた私に氏が「ならば彼のことを一人称で書いたらどうですか。私は貴方の一人称の小説、『生還』や『再生』を高く評価しているものですがね」といってくれたものだった。いわれて強い啓示を受けた気がしていた。

 そこで早速、田中角栄に関する書物を探しまくったものだ。驚くほど沢山の本があった。過去の人物は別にしても戦後の政治家の中で彼ほど多くの本が書かれている例は他にありはしない。そしてそれらを読めば読むほど彼ほど先見性に富んだ政治家は存在しなかったということを痛感させられたものだ。現在のこの国の態様を眺めれぼ、その多くが彼の行政手腕によって現出したということがよく分かる。

 それに限らず彼が証した最も大切な基本的なことは、政治の主体者が保有する権限なるものの正当な行使がいかに重要かつ効果的かということだった。彼は政治家として保有した権限を百パーセノト活用して世の中を切り開いた。特に通産大臣として彼が行った種々の日米交渉が証すものは、彼はよい意味でのナショナリスト、つまり愛国者だったということだ。

 彼は雪に埋もれる裏日本の復権を目指したように、故郷への愛着と同じようにこの国にも愛着していたということだ。アメリカのメジャーに依らぬ資源外交の展開もその典型だと思う。そしてそれ故にアメリカの逆鱗に触れ、アメリカは策を講じたロッキード事件によって彼を葬ったのだった。

 私は国会議員の中で唯一人外国人記者クラブのメノバーだったが、あの事件の頃、今ではほとんど姿を消してしまった知己の、古参のアメリカ人記者が、アメリカの刑法では許される免責証言なるものがこの日本でも適用され、それへの反対尋問が許されずに終わった裁判の実態に彼等のすべてが驚き、この国の司法の在り方に疑義を示していたのを覚えている。そして当時の私もまた彼に対するアメリカの策略に洗脳された一人だったことを痛感している。

 彼のような天才が政治家として復権し、未だに生きていたならと思うことが多々ある。特に私が東京という首都を預かる知事になって試みながらかなわなかったことの数々は、もし彼が今なお健在でいかなるかの地位にあって政治に対する力を備えていたとして、彼に相談をもちかけたならかなえられたかもしれぬとつくづく思う。

 例えぼ、パンク寸前のこの国の国際線に関する航空事情を救済するために、首都東京の中に依然としてアメリカ軍が占有する、日本で最長の滑走路を保有する横田基地をせめて軍民共用で活用するとか、役人天国を支えているおよそ非合理極まる単式簿記などという会計制度を国家全体として是正し、一般の企業並みに発生主義複式簿記に直して(東京都だけでは何とか実現はしたが)、税金の無駄遣いを是正するといった大改革が為し遂げられたのではないかとさえ思うが。

 私と田中角栄との個人的な関わりにはいろいろな思い出がある。本文にも記したが、議員になりたての頃、幹事長だった彼に一つの申し出をして敢えなくはねつけられたこともあった。今思えば彼の判断は妥当だったと思う。それからしばらくして私が出馬を断りつづけてきた共産党推薦の美濃部知事相手の都知事選挙を、それまで対立候補として指名されていた宇都宮代議士が告示の寸前に降りてしまい、美濃部の無競争再選を防ぐために私がやむなく敗戦覚悟で立候補した時、青嵐会の
仲間の一人ハマコーこと浜田幸一代議士が何としてでも共産主義者の美濃部を倒すために総理を辞していた角さんの力を借りようと、彼に会うのを躊躇する私をほとんど拉致して目白の田中邸に連れて行ったことがあった。

 金権批判の直後でもあって当然私は門前払いを食ったが、その後角さんが「石原なんぞ、俺に逆らわなければ今頃東京都の長官だ」といっていたと誰かから聞かされたものだ。それは至極当然と思ったし、私としては何のわだかまりもありはしなかった。

 角さんとの私の印象的な出会いは、私が再び衆議院に戻り、青嵐会の仲間たちと新しい試みで進みだしてからのことだった。秋口のある日、私が友人たちとスリハンドレッドクラブのローンテ一スコートでテニスをして昼食を摂りにクラブハゥスに弓き上げてきた時、仲間たちは正面玄関から食堂に向かっていたが、勝手を知る私一人が近道して横の階段からテラスに上がって仲間たちと合流しようとしたら、階段を上りきったテラスの向こうに思いがけず仲間の参議院議員の玉置和郎が座っていた。

 私の顔を見るなりいかにもバツの悪そうな顔をし、許しを乞うように片手を上げてみせた。それを見て向かいに座っていた相手が怪認そうに確かめるようにこちらへ振り返った。紛れもなく田中角栄だった。玉置は当時何かの問題で参院に急遽つくられた特別委員会の委員長になっていて、その運営のために闇将軍として力を振るっていた角さんの協力をとりつけようと辞を低くしていたのだろう。

 それにしても、つい先日まで金権政治反対で角さんに弓を弓いていた青嵐会の参議院代表としては、私に角さんといるところを見られていかにもバツが悪かったにちがいない。しかしその彼と相対して座っていた角さんにすれば、目の前の相手が突然怯えたような顔で挨拶する相手にいぶかるのは当然だろうが、思いがけなく直面させられた私の方も驚いた。

 仕方なしに階段を上がりきってから一礼したら、角さんの方からいかにも懐かしげに声がかかったも
のだった。「おお石原君、久し振りだな、ちょっとここへ来て座れよ」手招きして立ち上がると、何と自分から立っていって窓際に置かれていた椅子を持ち上げ運んできて自分の横に据えたものだった。

 ならば私としては無視して逃げる訳にもいかず、おずおず近付いて出された椅子に座り一礼して思わず、「先般はいろいろご迷惑をおかけしましてすみません」。頭を下げたら横にいる玉置が取り乱して「おい君っ」と声を立てたのを全く無視して、「ああ、お互いに政治家だ。気にするなっ」いわれてしまったので、

 「世の中照る日も曇る日もありますから、どうか頑張って再起なさってください」いったら、玉置がまた取り乱し何かいおうとするのを手で制して、「君は今日はテニスか、テニスは体にいいんだよな、時間も短くてすむし。君な、俺は軽井沢に別荘を三つ持っているんだよ。テニスコートも二つあるけどね。しかし子供や孫たちにいつも占領されてな、俺の出る幕がないんだ」

 そして、「まあ、ちょっと付き合って一杯飲めよ」いうと自ら立ち上がり遠くにいたウェイターに、「おいビールをもう一つっ」と声をかけてくれた。

 "これは何という人だろうか"と思わぬ訳にいかなかった。私にとってあれは他人との関わりに関して生まれて初めての、そして恐らくたった一度の経験だったろう。一礼して別れ、仲間たちと食堂で合流した後も、私はたった今味わった出来事の余韻を何度となく噛みしめていたものだった。

 それともう一つ角さんとの私の関わりで意味深い挿話がある。角さんが未だ闇将軍として恐れられ力を振るっていた頃、角さんと同郷の立正佼成会の開祖の庭野日敬(にわのにつきよう)師が彼に引退を勧め、平和運動にでも邁進したらと引導を渡そうと席もうけた折、角さんは断固として聞かずにロッキード裁判なるものの欺隔と虚構についてまくしたてつづけ、説得をあきらめた庭野師が退席してしまった後も、同席していた教団渉外部長の布施なる人物に裁判批判を続けていたが、布施が裁判の後、角さんに背を向けた者たちに話題を変えたら、角さんも自分が目をかけてやり金の面倒まで見てやった連中の名前を欝憤を晴らすべくつらねて口にし、自分の目の黒い内には彼等を絶対に大臣にはしないといいきったそうな。

 そこで日頃、改憲論者の私に批判的だった布施が、「先生に金権批判で弓を引いたあの石原はいかがですか」と水を向けたら、角さんはにべもなく、「ああ、あんな奴、あいつはもともと物書きだからな、仕事として書くのは当たり前だろうよ。第一、俺はあいつに金なんぞ一文もくれてやったことはないからな」

 いったそうな。それを聞かされて私としては角さんの金権の相伴に与(あずか)ったことが全くなかったことにつくづく感謝したものだったが。

 私は自分の回想録にも記したが、人間の人生を形づくるものは何といっても他者との出会いに他ならないと思う。結婚や不倫も含めて私の人生は今思えばさまざまな他者との素晴らしい、奇蹟にも似た出会いに形づくられてきたものだった。そう思えば、自ら選んで参加し、長い年月を費やした政治の世界での他者との印象的な出会いはさして思いあたりはしない。

 私をむしろ若い友人として周りから見れぼ多分稀有なる付き合いをしてくれた佐藤栄作にしろ、私を重用して異例の抜擢で閣僚に据えてくれた福田赴夫にせよ、田中角栄ほどの異形な存在感などありはしなかった。その才気もある意味では常識的な域を出はしなかった。

 いずれにせよ、私たちは田中角栄という未曽有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだった。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。

 この稿を書くにあたって多くの本を参考にし多くの啓示を受けた。田中角栄自身の『私の履歴書』、田原総一朗氏の『戦後最大の宰相田中角栄』、立花隆氏の『ロッキード裁判とその時代』、辻和子氏の『熱情ー田中角栄をとりこにした芸者』、中澤雄大氏の『角栄のお庭番朝賀昭』、佐藤昭子氏の『私の田中角栄日記』等々、多くの文献に負うところが多かったことをお断りしておく。