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はじめに
            
 昭和天皇が崩御(ほうぎょ) されて以来私は、「日本神話」伝承(でんしょう)のいっぼうで昭和天皇について書かれたものを読みあさり、また、このたびご生誕(せいたん)百年にあたり、二度目の『昭和天皇』も上梓させていただきました。その間、何度も私は感極(かんきわ)まって涙を流しました。その、あまりにも私ごころのない、どこまでも国家、国民のことを憂えられて、また人類すべての幸せを世界平和を希(ねが)われて、とつとつともらされるお言葉に涙があふれてしまうのでした。

 あの、今ではみなが知るところとなったマッカーサーを初めておたずねになられた日、陛下の仰(おお)せを謹(つつし)んで承(うけたま)わらずお心を悩ませた人物らの罪までもすべてをお一人で背負うことを申し出て下さいました。その上に、マッカーサーとの約束を守られ十年後にマッカーサーの口から明かされるまで、この事は他言(たごん)されませんでした。

言論の自由をよいことに天皇の戦争責任をかしましく言いたてる中で、一言の弁明(ベんめい)もなさらずに、じつと耐えておられました。
           
 マッカーサーはその回想録(かいそうろく)に、
       
 【その崇高(すうこう)なお姿に、「われ神を視(み)たり」と心の中で叫んだ】と記(しる)しています。私も涙と共に湧(わ)きあがってくるのは、「まさに神!お姿は人間でありながらお心は神の領域(りょういき)におすみのお方!」との畏敬(いけい)と驚嘆(きょうたん)でありました。
                                                              
 昭和天皇ご自身は、お言葉やご行為にそのようなことは念頭になかったでしょう。しかしご聖徳(せいとく)を辿(たど)らせていただくと、それはみな無私(むし)であるがゆえにひらめく叡智(えいち)と、すべて 
 をゆるす慈悲仁愛(じひじんあい)、誠なる勇気という、「三種神器(さんしゅのじんき)」にこめられた光芒(こうぼう)に包まれてしまうことを知りました。それは天照大神(あまてらすおおみかみ)から神武(じんむ)天皇、そして昭和天皇へとつづく悠久の皇統の光芒です。

 私たち日本人みんなのご先祖が澄んだ感性により創造した天地の法則にのっとった大和の理念、この国家像を、事あるごとに体現されたのが昭和天皇であらせられたことを私はたしかに知りました。         
 終戦のとき昭和天皇のご聖断(せいだん)がなかったならば、また、草鞋(ゎらじ)ばきの行脚(あんぎや)のようき巡幸(じゅんこう)による、国民への励ましがなかったならば、戦後のわが国の驚異的な復興はありえず、今の平和と豊かさを享受(きょうじゆ)することはあり得なかったと断言(だんげん)できます。
                    
 ところが崩御される半年前、全国戦没者追悼式(せんぼつしゃついとうしき)の日によまれた御製(ぎょせい)、  
やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど
    
 を拝誦(はいしょう)しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。 
ご生誕百年の今年を期して、国民みなが思(おぼ)し召(め)しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心(おおみこころ)をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状態はしだいに消えましょう。わが国のほんとうの姿である「明き活き直き誠の心」がみなにあらわれ、わが国は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵(あんど)いただける日のくることを祈らずにはおられません。
                  平成十三年四月六日           出雲井晶



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 ・・・天皇さまは竹田宮が新京から帰国すると、広島県手品(うじな)の海軍特攻隊司令部と福岡の第五航空軍司令部につかわされ、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)王を厚木海軍航空隊基地につかわされ、天皇さまのおおせにしたがい軽はずみなことをおこさぬよう、お伝えになられたのでありました。
                                        
 この天皇さまの、まさに血のにじむようなお骨折りと平和を願われるご仁愛(じんあい)のおかげで、マッカーサーをして、「歴史上、戦時、平時を通じてこれほど速(すみ)やかにまちがいをおこさずに兵隊たちの武装をとき家に帰した例を私は知らない。約七百万の兵士の投降という史上に例のないむずかしい仕事が一発の銃声もひびかせないで、連合軍兵士のひとりの血も流すことなく終えることができた」 と言わせたのでありました。
              
 迫水久常(さこみずひさつね)氏はのちに、天皇さまのご仁慈(じんじ)についてもうひとつ付け加えたいと話しています。それは戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)の裁判について、鈴木内閣の次の東久適宮(ひがしくにのみや)内閣のときでした。

 戦争犯罪人の裁判を連合国軍の裁判ではなく、日本の裁判でしたいと考え、そのことをマッカーサーに願い出たいと、天皇さまに申しあげたそうであります。天皇さまは、「その裁判は自分の名において日本の裁判所でやるということか」 とお開きになられました。天皇の御名(ぎょめい)で、裁判官がおこなうことになりますと、お返事申しあげますと、天皇さまは、
                    
「私は国民のひとりでも戦争犯罪人として裁(さば)くことなどできはしない。国民はひとり残らず一心に日本の国のために尽くしてくれた。戦勝国が戦勝国の名において勝手に裁判をするのならば、致し方のないことであるが、私の名においては何人も戦争犯罪人というものにあたる者はいない」 と、おおせられたということであります。

 
二 マッカーサーの骨のズイまでゆり動かしたお言葉
                           
 昭和二十年九月二日、東京湾に大きな姿を浮かべた戦艦ミズーリ号の艦上で、ポツダム宣言を受けいれる調印が、重光外相(しげみつがいしょう)、梅津参謀総長(うめづさんぼうそうちょう)にまかされておこなわれました。この日、同時に連合軍総司令部(GHQ)が置かれ、GHQ(ジーエイチキュー)は日本陸海軍を解散させて、日本の軍隊はなくなりました。戦争のための飛行機、戦車、弾丸(だんがん)を造(つく)っていた工場はぜんぶ閉じました。
            
 九月十日にはGHQは対日管理方針(たいにちかんりほうしん)を打ちだしました。 昭和天皇は九月二十七日、マッカーサーをアメリカ大使館のマッカーサーの部屋におたずねになりました。当時のことを「天皇・マッカーサー会見の真実」(フオービアン・パワーズ「文芸春秋」平成元年三月臨時増刊号)から拾ってみましょう。
                                                                                 
『″私(註・マッカーサー)が東京について間もないころ、私の部下たちは、権力を示すため、天皇を司令部に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申し出をしりぞけた。「そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者(じゅんきょうしゃ)に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いにくるだろう。いまの場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さの方が、われわれの目的にいちばんかなつている」というのが、私の説明だった。
             
 実際に、天皇は間もなく会見(かいけん)を求めてこられた。モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁(ひろひと)天皇は御用車のダイムラーに宮内(くない)大臣と向かいあわせに乗って、大使館についた。私は占領(せんりよう)したはじめから天皇の扱いを粗末(そまつ)にしてはならないと命令し、君主(くんしゅ)にふさわしい、あらゆる礼遇(れいぐう)をささげることを求めていた。・・・(略)
          
 私は天皇が、戦争犯罪者(せんそうはんざいしゃ)として起訴(きそ)されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者にふくめろという声がかなり強くあがっていたからだ。現にこれらの国が出した最初の戦犯リストには、天皇がいちばんさきに記(しる)されていたのだ。私は、そのような不公正(ふこうせい)な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動き強力に抵抗した。
               
 ワシントンが英国の考えに傾きそうになつた時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵(しょうへい)が必要になると警告(けいこく)した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑(こうしゆけい)に処せられることにでもなれば、日本に軍政(ぐんせい)をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。けつきょく天皇の名はリストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。
               
 しかし、この私の不安は根拠(こんきよ)のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争をなしとげるにあたって、政治、軍事両面でおこなつたすべての決定と行動に対する、全責任をおう者として、私自身をあなたの代表する諸国のさばきにゆだねるためにおたずねした」

 私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知りつくしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引きうけようとする。この勇気にみちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格(しかく)においても日本の最上の紳士(しんし)であることを感じとったのである。(略)

 天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問をうけ、世界のほとんどの問題について話しあった。私はいつも、占領政策(せいさく)の背後にあるいろいろな理由を注意ぶかく説明したが、天皇は私が話しあったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかりと身につけていた。天皇は日本の、精神的復活(ふっかつ) に大いに役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実(せいじつ)な協力と影響力(えいきようりょく)におうところがきわめて大きかった”』