旅 は 我 が 師
                       山 口 定 徳
1.自然に還る

 今年の夏の暑い盛りであった。福岡市で漁港の大会があり,終了後漁港の視察をする為団体でバスによる港めぐりに参加した。バスは冷房が利いていて,走行中は快適であった。私は運転手の後に席を取って,窓外の雑踏を見ていた。行き交う車輌,事の間を縫う様にして走るオートバイ,信号の変りを待ち切れないように走り出す貨車等,都会の交通は雑踏そのものである。ふと私は運転手が手袋をしているのに気がついた。怪裁でもしているのかと思って見ると,両手ともしている。停車し,駐車すると手袋を外す,運転する段になると手袋をするのである。手袋は常識では,防寒の為にするもので,真夏には不用である。冷房が利いていても,夏に手袋を必要とすることにはならない。次の港視察の折,私は下車を少し遅らせてその理由を聞いて見た。その運転手の話によると,街中を殊にバスの運行路線外走行中には,不意に子供が飛び出したり,事輌が衝突しそうになるそうである。そんな時,思わずハッとして所謂冷汗をすることが,往々あるそうである。危機一髪の折等はペットリ汗するそうである。そうするとハンドルが滑って,運転を誤り事故のもとになると言うのである。手袋をしていれば,汗でハンドルが滑る事がないと言う。

 糸山英夫博士の書かれ本に次の様なことがあったのを思い出した。石器時代,我々の祖先がジャングルに生活していた頃,ライオンや虎に出会う。ジャングルでは近距離で発見することが多く,目の前に忽然と出現する。その時難を避けるには木に登ることが最良の方法であろう。咄差に登ることを容易にするため,手や足の裏に汗が出て木登りを助けるようになっていると言うのである。これは人類が生き延びる方法として,神が授けた自然の妙と言うべきだろう。その自然の妙も文明社会では不用となりつゝある。バレーの応援に行った時も,そんな体験を持った。応援しているチームが負けそうになる。危いところで切り抜ける。そんな時は手に汗を握っている。ルールがなければ,敗けそうな時にはとび出して助けてやりたい衝動にかられる。そんな時手の汗は役に立つのである。ところが今日の文明は,神が創造してくれた自然の妙を不用なものとしつゝある。汗を出すことは体温調節の為,神が与えた方法だが,冷暖房はそれを不用にしつゝある。

土を踏むことは健康の為に良いことだが,今日文明社会の人は土を踏む機会は少ない。 人は天が与えた自然の妙に支えられて,今日迄生きて釆たのである。然るに今日の物質文明はそれ等を不用なものとしつゝある。そして新しい文明病が発生しっゝある。自然を遠ざけ,安易な途を求めれば求めるだけ,新しい病に犯されているわけである。自然に還ること,之は人類にとって大切なことではあるまいか。

 親は子供を育てるに,理想的な環境の中で育てたいと思う。暑さ寒さも知らず,不衛生な環境にも足を踏み入れない。従って風邪にもかゝらず,食中毒にもかゝらない。心配のない気苦労のない伸び伸びと,天性を十分に発揮し,真に理想的な世の中に於てである。それが一生続くとしたら申し分ないと思う。然し人の一生の間には,逆境もあれば心配事もある。不衛生な場所に足を踏み入れなければならないこともある。その時そんな体験のないもの,抵抗力のない者は一度に磋跌してしまうだろう。

 人間の住む環境は不動のものであると言うことは考えられない。動き,変化するのである。花もあれば嵐もあるわけである。とすればどの様な条件にも,耐え得る人間でなければならない。自然は人間に様々の試練を与える。その試練をうけて行くところに,困苦欠乏に耐える力が湧いてくるのである。文明の利器も程々にしてこそ,人は強く逞しくなっていく。
 原始的な生活に耐え得る人は,より良い文明社会には順応し易い。逆に良い環境でのみ育った人は,その環境外は不快恐怖の世界で,生活出来なくなるであろう。このように考えると,悪い環境も人を育てる試練の場と考えられるものである。

 人に望ましくない環境は,出来るだけ取除くべきであろう。然しすべての人に望ましい環境−より良い環境を求めたいとして留るところを知らない,人の欲望を十分満足させる環境一等出来ないのであるから,不十分不備に耐え得ることも必要なことである。 自然に還ることは,人が生き延びる為に必要な事である。然し今の時世は,その様な環境を棄てて,喧騒で壮麗で華美で不健康な環境に住みたい者が多いと言わざるを得ない。

 
2.墓碑に想う

 十数年前,私が四国松山市を訪れた時である。初めての松山市,夕方近く北部四国の旅を終えて,団体旅行のバスは市内を走っていた。宿舎も近づいて,曲折の多い狭い街の通りを徐行していた。右の窓側に居た私が,ふと窓外に目を移した時,一メートル余りの道標が目についた。それには指の形で方向を示して,一面に白川義則の墓,他の面に秋山好古の墓と書いてある。此の方向に両人の墓があることを示してあるのである。

 白川義則とは上海事変後の観兵式で爆弾を受け,それが原因で間もなく没せられた陸軍大臣,陸軍大将白川義則氏である。

 秋山好古とは日露戦争に旅団長で出征,将校で唯一人指揮刀を帯びて行かれた軍人である。秋山旅団がロシア軍の包囲攻撃を受け,全滅に頻した時,近くの高台に登り指揮刀を抜いて,恰も救援の日本軍が来て,逆にロシア軍を包囲させるが如き指示をした。ロシア軍は幻の日本軍に包囲される危険を感じて,囲みを解いたといわれる。

 二人共愛媛県の出身とは聞いていたが,松山市の出身であり,墓地が松山市に在るとは知らなかつた。宿に着くと墓地を訪れた。道標から百メートル余りの処に墓地公園がある。街を見下す小高い丘の中腹である。街を見下す反対側の方は,うっ蒼たる樹木が繁茂し,更に小高い山が伸びている。街の方は,墓地公園の周辺にところどころ喬木があり,その間から街の屋並が見える。白川大将の墓碑は,見上げる程で墓地公園の入口近くで見つかった。附近には南方や支那方面,又は大平洋上に於て戦死された方々の墓碑が並んでいる。尉宮や下士官兵の方々の,戦死の場所や日時が刻されて居り,墓碑も白川大将のに劣らない大きさのも散見されるのである。秋山大将は昭和五年頃死亡されたと記憶していたが,あれだけ著名な方だから,大きな墓碑を想像していた。可成り広い公園であるので,隈なくは見れなかったがどうしても発見出来ない。月のない夕方で照明のない私は,捜すのを諦めざるを得なかった。明朝早くから捜すことにして,その日は打ら切った。

 翌朝早目に再び墓地を訪れた。二回程ぐるぐる廻って捜したが,どうしても発見出来ない。人に聞こうにも早朝で人影もない。今日の日程も団体行動であるので,余り自由なことは出来ないわけである。諦めてかえることにした。未練がましくかえりかけた私が,近くの人家の前を通る時,折良く雨戸を開けるところであった。私は勇を鼓して尋ねた。

 「墓地の中央付近に小さな桜の木があります。その根元付近にありますよ」 と教えられて再び墓地へ引き返した。成程中央付近に径15cm程の桜の木がある。その根元に行って見ると「秋山好古之墓」と刻まれた墓碑がある。私は丁重に頭を垂れたが,奇異の感に打たれた。高さ50cm位の墓碑であり一般の方と並んでいる。白川大将をはじめ,戦死者の方々の大きな墓碑を見た私は,それに比肩する大きさのを想像していた。尉宮や下士官の方々の墓碑でも大きいのである。

従って咋日も今朝迄も大きな墓碑のみ捜していたので,発見できなかったのである。 考えて見ると,天寿を全うした人と,国の為公の為天寿を全うすることの出来なかった人とは,一般の人の考え方が違うわけである。天寿を全うすれば,一般の方も,大将も同じである。墓碑も同じ大きさのものが建立されていても不思議はない。ところが自らの生命を国の難に殉じ,天寿を全うすることの出来なかった人こそ,墓碑で顕彰してあるのである。我々が今日平和に暮せるのは,それ等の方々の尊い犠牲の上に築かれているのである。生きている人が,それ等の尊い儀牲者に対する尊敬と感謝の現れとして,大きな墓碑建立に発展したものであろう。

 
翻って,私は元寇の役の国難に殉じた少弐資時公の事を想うのである。弘安4年5月21日,壱岐の守護代少弐資時は手兵100騎をもって,海を蔽うて押し寄せた高麗,蒙古の大軍と勇敢に闘って戦死された資時公はじめ,一族の方々の至誠と勇気と責任感は,書を読んだだけでも感動させずには置かない。況んや,墓所に参拝して丘を眺め海を望んでは,無量の感慨を覚えずにはおれないのである。

天を迎ぎ見る碑でなくとも,その忠誠心と勇気を称えるに想応しい碑がほしいと思うのである。 
昭和11年松永安左エ門氏が,少弐資時公の墓所を参詣された折のことを「稷々たる古松の音に護られ乍ら,658年の間一つの村社ともならず,そのまゝ放任されていた」と記されて居ります。真に松永翁ならずとも,感慨無量の記事であります。今墓所を中心に少弐公園建設が,年次計画的に進められつゝあり,いつの日か少弐公の碑が,訪れる人にその至誠,勇気,責仕感,郷土愛を訴えるに
想応しいものを建立し発展することを祈っている。それが郷土を築く人の胸に蘇り・発展の礎となり,殊に青少年の教訓となり,健全化の一助にもなるものと確信する次第である。

 
3.ハングリーであること
 東京在住,壱岐出身の真鍋儀十氏終生のコレクションを収めた,芭蕉記念館を最近訪れる機会があった。 同氏は国分高等学校、次いで香椎高等学校を卒業し長崎師範へ入学され,卒業後明治大学へ学んでおられる。大学時代より普選運動に活躍し,衆議院議員として戦前戦中戦後に亘って令名を馳せた方である。香椎時代,勝本町城山に在る曽艮の墓が縁で、俳句に興味を持ち,長崎師範時代曽良研究の第一人者穎原退蔵氏に師事された。穎原氏が東京高師に入学されたので,続いて入学を希望されたが東京高師は師範の一番のみが入学出来る掟であったので諦め,俳句を趣味でやる決心をされたそうである。趣味で俳句を学ぶには,弁護士になるのが良かろうと言う事で,明治大学へ入学された。弁護士でなく政界の途を歩まれたが,俳聖芭蕉の研究、資料の収集を生涯かけて続けられ,今日では芭蕉研究の第一人者といわれる。生涯かけたコレクションは,収蔵する建物があれば寄贈しようと言うことになり、住居のある江東区が3億2千万かけて,芭蕉縁りの地江東区常盤町1の6の3に55年3月から56年2月にかけて,床面積850平方メートルに及ぶ記念館を建造した。4月19日同氏も出席して落成式が行われた。

 同館は展示室の外、会議室、研究室等もあり,俳句や文学の研修例会にも利用され、多くの俳句が生れている。明窓浄机の良い環境で,句会が催されているのである。それにしても、汗牛充棟にも等しい句の中から,芭蕉の名句に匹敵するのが生れないのかという気がする。

 芭蕉の句は、国内を難行苦行してかけめぐり生れたもので,今の時代の飛行機,新幹線、さては冷暖房付のバスで美食を飽食して詩んだ句の中からは生れないのではないか、と言う気がするのである。今の時代に想応しい名句は生れているのだろうが、当時の何百里も徒歩旅行し,粗衣粗食,医療も不十分の時代の句は浮んでこないわけである。満ち足りない情況に在って,切実さに迫られて読んだものが,人の琴線に触れる句となるのではないかと思うのである。ハングリーの中からしか、名作は生れないのではないかと言う気がするのである。逆に点まれない環境に在ること。必ずしも不幸ではないと言えそうである。要は恵まれない劣
悪な環境を,どの様に活かして行くか,その活かし方によって,立派なものが生れる。劣悪な恵まれない環境は,満足さを求めて居り常にハングリーな情況に在る。そこから良いもの立派なものが生れるのではなかろうか。

 最近は自殺の記事が新聞でよく見られる。それには生活苦もあれば,家庭内の不和もある。追い詰められた失望もある。然し根本的な問題は,人間として生きるに値するかどうかの判断にあるようだ。これからの人生が生きるに値しないと判断して,死を選んでいるわけである。カミユの詞を借りれば「時には人を自殺に追いやるかも知れない問題」であり,時には「生きる情熱を十倍にするかも知れない問題」即ち生き甲斐の問題である。生き甲斐を失った時,人は死を選ぶ。

 生きんが為の切実な問題を把握すれば,大抵の困難さは克服して行けるのではあるまいか。それは意志の問題と言うよりも,ハングリーの問題ではあるまいか。ハングリーとは,希望を持つ,願いを持つと言うことであろう。希望と願いが満たされたものはハングリーではない。満たされないものの中から切実な問題として生まれて来る。

 西ドイツは自殺者が多い方だという。経済的に強い西ドイツ人はよく働く。金をためる。なんとかして家を建てたいからだと言う。そして自分の家を建てる。庭に芝生を植え,花壇を設ける。テラスに植木鉢を並べる。門をまっ白に塗る。けどそのテラスに寝椅子を持ち出して日光浴をしている内に,気が変になってしまう。願いが達せられた時虚脱感に襲われ,目標がなくなる。そして精神病院に行くか,時には死を選ぶという。ハングリーでなくなったのである。空しく生き甲斐を捜し廻るよりも,死を選ぶわけである。 

 このようなことはあらゆる事に通ずる問題である。例えば農業においてもそうである。私はかって四国伊予の蜜柑産地を見学したことがある。明治20年頃から始めたと言い,全国的にも長い歴史をもち,どんな不況にも耐えて,伊予蜜柑の名声を得たものは何だろうか。伊予は急傾斜の山間,段々畑を切り開いて植栽してあるのである。蜜柑としては条件の悪い土地柄である。肥培管理,収穫,運搬も困難な地形である。然し蜜柑以外のものを作付するとすれば,尚更困難である。今日迄百年近い歴史の中で,収穫の悪い年,需用が伸びず経営の悪い年等何度も試錬の年が訪れたのである。それ等を乗り超えて今日名声を得ている。それを支えたものは、耕作者のいっか良くなると言う希望であり,強い信念であった。原動力に蜜柑以外には作れないと言う、地理的悪条件があった。他の作物に適する土地柄でない。蜜柑が駄目なら白菜があるさ,南瓜があるさ,生姜があるさと言う訳には行かないのである0困難を克服して,取組んだ蜜柑に生きようという信念が、全国こ著名な伊予蜜柑を築きあげたのである。

 農業条件の悪い,即ちハングリーの情況にあったところに,蜜柑を耕作し,それに全身全霊を打込んだ結果,素晴しい成果を得たといえるのではなかろうか。東京がだめなら大阪があるさ、と言う歌の文句はこのような場合には,厳に慎しむべき考え方である。

 
4・民族資料館の活用

 歴史民族資料は、祖先の尊い遺産であり,自らの中に眠る勇気と活力を挺らせてくれる財産である。保存されている資料を、訪れて見ることは楽しい。分析し,研究し、比較して見ると,地域の特性を発見出来ると同時に,地形・風土・人物・歴史の縫合的な成果を見る思いがするのである。 壱岐が大陸との交通要衝に在って、大陸文化中継基地として,縄文,弥生の資料が多く出土していることは周知のことである。従って,経典・絵画・彫刻・掛軸・佛像・刀剣類をはじめ、往古を偲ぶものが数多くある。更に歴史的には文永弘安の役に於ける元寇の遺跡・豊臣秀吉の朝鮮出兵,豪族の墓といわれる鬼の岩屋・室町時代の安国寺,経済発展の足跡新田,勇壮な鯨組,数々の歴史を秘める城跡,地学的には数々の化石等、資料の多くは未だ眠っているのである。

 
これ等は裁々の祖先が困苦欠乏に耐え,血と汗をもって,永い間に築いたものである。そこにはきびしい自然環境と闘いつゝ,創意と工夫を重ねて来た歴史の年輪がある。又元寇こ見る如く、国を護る気慨と,公に奉ずる精神は真に燦然たる光を放っている。国防の捨石として泰然として死地に赴いた精神は,懦夫をも立たしめる慨があり,感奮興起せしめずには措かない。

 翻って今日の世はどうであろうか。社会の異常さは目を蔽い,耳をふさぎたくなるのである。親に対する殺人,子供殺し、営利誘拐,更に殺人,行きずり殺人,保険殺人,麻薬渦、銀行強盗、現金横領、集団暴行,交通事故増大,集団スリ,性不純交遊等は続発している。壱岐でも之等犯罪が増加しつゝあり,悪質化しつゝある事は,離島の楽園夢の浮島等と言って居れない憂慮すべき傾向である。この傾向は,新聞,テレビ,雑誌,ロコミ等を媒体として,青少年を蝕みつゝある。壱岐の将来を,否、日本の将来を背負う青少年を之等悪習慣から護り,健全で剛健な青少年のみにしたいとは,すべての大人の願いである。

 之等教育の一助として,民族資料は活用さるべきである。裁等の先祖は,血と汗をもって郷土を繁栄させ,国土を守護し,今日の日本を築いて釆た。今日の平和で経済大国と言われる日本は,先人の質実剛健,勤勉努力の賜物である。その尊い歴史を知らずして,先人に対する感謝の念を忘れて,明日の日本が築かれるであろうか。今のような贅沢に溺れてよいのか,時間と金を一身の安楽と遊興に空費してよいのか,活力を失い,希望を失った生活に惰して良いのか,反省をしなければならない。

 又民族資料は,それを眺めるだけでも,魂を揺り動かす尊厳さと偉大さを持たしめなければならない。静寂な境地に在る柔和な佛像の前では,
信者でなくともその尊厳さに打たれるのである。 嘗て世界の大国であり,現在衰亡しつゝある国に英国があげられて居る。英国衰亡の原因は挙げれば数多くあろう。その中に文化の退廃があるといわれる。国が亡びる前兆として,放らつな道化,柔弱な音楽,軽調浮薄な風潮が一世を風靡し,けんらんたる粧いが人心を蝕んで行くといわれる。そしてそれは,社会を荒廃させている。然し社会は腐敗しきったわけではない。人の魂は荒廃し,秩序は荒廃し,道徳は荒廃し,躾は荒廃し,教育は荒廃しているかも知れない。然しすべてが腐敗しているわけではない。まだまだ救いようがあるのである。然し今が救う為の重要な時期に在ることは事実である。

 此の秋,壱岐にある歴史民族資料を発掘し,研究し,整備して,広く世の教育資料として活用したいものである。

 5. 中国 一 熱烈歓迎の裏にあるもの

 昭和56年9月短期間であるが中国を訪れた。上海,北京,瀋陽の慌しい旅であった。その日,東支那海は晴れていた。咋日迄台風18号が荒れていたとは思えない。台風一過の空は紺碧に晴れわたり,海は一面の濃紺で一万メートルの上空からは波一つ見えない。飛行機は上海の虹橋空港に向って,恰も空の一点に静止しているかの如く,微動だにしない。時々ちぎれ雲が後にとんで,機が動いていることを思わせる。長崎空港出発直前に,台風18号は済州島の南々東180キロメートルを,北東に進んでいると放送していたので、既に済州島の南を通過しているかも
知れない。ゆっくりした迷走台風である。その余波を避けるが如く,鹿児島の西方迄南下し・西進しているのである。機内放送が後20分で空港に到着の旨伝え る。その時、海を見ると、先程迄の紺碧の海が濁っている。茶褐色のコーヒーでも流し込んだ様に濁って西の方大陸へ拡がっているようである。時計は12時5分である。先程時差1時間のため,時計を一時間遅らせるようにとの放送があったが、上海へ到着してから遅らせることにする。間もなく此の濁りは,揚子江の濁流の為だと分る。黄砂が壱岐の空を蔽うことから,揚子江の濁流がどの位あるのか知りたいと思い,考えをめぐらせた。間もなく中国本土が見える。時計は12時15分である。中国本土から飛行10分間の距離から濁っているわけである。時速から推して、120キロメートルを超えている。壱岐,福岡76キロメートルといわれるので、更に50キロメートル先迄の海が濁っていることになる。

 私はそのスケールの大きさに一驚したのである。 北京で万里の長城を訪れて,その雄大さに打たれた。東は山海関から西は甘粛省の嘉峪関迄、2400キロメートルに及ぶ長城は,中国先祖の血と汗の所産である。秦の始皇帝は,30万の軍隊と数百万の強制徴発の農民を駆使して,現長城の原型を造ったと言われる。歴代の王朝も長城を強化,殊に明朝は煉瓦で強化したといわれる。長城が匈奴,突厥・蒙古等の異民族から護る,国防上どれだけの効果を発揮したかは不明だが、煉瓦で出来ていることは驚きであった。西の方は粘土で固めた所もあるそうだが、大部分は煉瓦らしい。とすれば煉瓦を焼くに用いたエネルギーである。莫大な森林資源、草資源が用いられただろう事は想像に難くない。それが長城付近のみでなく、華中以北の山林から焼盡されたとすれば,揚子江の濁流もうなづけるのである。草木が無くなって河川が氾濫する。河川が氾濫するから一面に洗い流される。草木が繁茂する暇もなく降雨が訪れる。その繰り返しが中国ではなかろうか。中国は日本と異なり、広大な土地の割に海岸線が少ない。河川の流域面積が大きいので,治水は政治の重大な課題で,国を治める事と、治水は同じ意義を持っていた。従って長城建設のみが,今日の治水の困難の原因とのみはいえないこと勿論である。

 長城建設の功罪は、今日壮大な観光資源を残したに留るのかも知れない。唯救いがあるのは、万里の長城を訪れる観光客が、自ら汗して長城に登り,急坂長城を蛇行し乍らも歩き,監視塔を訪れるようになっていることである。エスカレータ−もケーブルカーもないので,自ら額に汗して訪れる観光の有様は,好感の持てることであった。更に附近に売店も少なく,レコード等の騒音もない。日本であれば,食堂,売店,乗物類が並んでいるところであるが,それが無いところに好感がもてるのである。それは未開発を意味している。未開発なるが故に,ありのまゝの真の姿が見れることが価値があるのである。汗して出来たものは,汗して見て価値があるのである。

 中国人の乗物は自転車である。交通に利用する車輌は殆んど自転車によっている。北京は人口850万といわれるが,300万台の自転車があるとのこと。自動車は少なく,政府関係者の外は,外国の外交関係と,民間のバス貨物自動車位であった。軍関係はあるようだが,殆んど見かけなかった。従って交通事故も殆んどないという。但し此頃時折発生するとのことではあるが,日本とは捷較にならない。それは運転免許取得に,6カ月学校に入り,徹底的な教育を受ける為のようである。又違反の処罰もきびしい。自転車を購入することも,家族の人数等による制限があり,無闇に購入できない。日本のように自動車購入時(勿論車庫有無の条件はあるが)免許も容易に取得出来,交通規則はあっても,取締りにも制限があるので,違反が多く,処分の緩慢さと相侯って事故多発の原因となっている。もっと自らをきびしく,遵法の精神を養成させられないものかと思う。

 中国は物資が乏しい。買物をしても黙って居れば,包装もなく購入したものだけ渡してくれる。包装しても紙質の悪いもので,簡単な包装である。日本のように,一つ一つ丁寧に包み,それを数をまとめて一包みにし,更に紙袋に入れて提げられるようにしてくれるのとは,雲泥の相違である。日本では丁重な包装が価格に跳ね返り,それが不用紙の氾濫で塵埃処理の問題となり,資源の浪費となっている。

 換言すれば,開発途上国,未開発の良さが,豊かさによる倦怠へ,良い刺激を与えているわけである。中国人は未開発の故に,倦怠のない充実した幸福を手にしている。 藩陽(旧奉天)では幼稚園,人民公社,公社の中の住家,老人ホームを視察した。幼稚園では幼児から,人民公社では日本でなら児童に相当する学童から,中日親善の熱烈観迎を受けた。数十名の幼児又は児童が,ドラムを鳴らし,中日の手旗を振り、クーエンバー(よくいらっしゃいましたらしい)の歓迎である。住家では家族全員が、案内して質問にも通訳を通じて答えた。老人ホームも入所者が丁寧に迎えてくれた。唯住家で、十数名の青年が,バスを囲むようにして珍しそうに私達を眺めていた。

 中国では、統一、分裂、統一が繰り返し行われている。それは三国志の再演といえるかも知れない。果てなき葛藤が繰り返されるのは,民主国家の如き,政権委譲のルールがない為、やむを得ないことかも知れない。長期安定と言っても,何時崩れるか分らない。従って国際間の友交の度も,どの様に変化するか分らな いのである。 中国の熱烈歓迎、それには心から感激し、心から感謝もしたのであるが,児童や幼児等が命ぜられるまゝ演技を見せてくれた感が深い。中日友交の何たるかを理解しての歓迎ばかりではないような気がしたのである。大人の私達でさえ,中国の財政赤字、インフレ,基本建設の圧縮又は中止,石油減産,二重為替ルート制等の問題の為,今後どのように展開するか分らないのに,子供達が真の友交を理解して、旗を振っている筈はなかろうと考えた。

 人民公社視察の折,付近に居た青年達は,熱烈歓迎とは遠い冷静な目をして,我々を眺めていた。現在の統一が何時の日か分裂し、次の権力闘争の結果出現した首脳が,どのような政策を打出して行くか分らないと考えると,中日友交が永久であるべきを祈念する外は,致し方あるまいと思うのである。

 
6.壱岐の水資源
 旅をして生の水が心配なしに飲めることは幸せである。然し山や谷の湧水や,河川の源になっている上流の清洌な水等の外は望めないようになった。それより水道の水が生で飲めない国が多いと聞く。日本では水道が普及し,必要に応じ生水が飲めることは幸せなことである。

 水が人間環境の中で、最も重要な要素の一つであることは,論を待たないところである。人の体重の約65%は水であり、代謝によって,皮膚,肺,腸,腎臓等から失われて行く。失われた水分は即座に補給しなければ,生きて行けないのである。飲料水なしに居住を考えることは不可能であり,それ故古代文明の発祥は,河の沿線や流域に於いて発生した所以でもある。 地球上に於ける,水の97%は海に在り,陸にあるものは3%に過ぎないといわれる。その内2%は両極地方の氷であり,残りの1%が陸水であると言う。我々が利用しているのは,その1%の水が生活の場に在る間のみである。それも河から海へ、と流れ,或は蒸発して行く。 陸水は降雨によって得られるが,降雨も年間不定であり,毎年の降雨量も年によって異なる。従って余剰水を貯え,渇水期に備えることが極めて大切なことで,今後益々その事は重要なことになると思われる。之が為河川に於ては頭首工,溜池,ダム,更に人造湖建設,地下水の高度利用等が行われている。

 壱岐の水について考えると,139平方メ−トルの土地に降る雨は,年間2億2千5百万立方メートルといわれ,その水の収支について考えられているものゝ一つに次の試算がある。 「約3分の1の7千7百万立方メートルが洪水として海に流出,7千4百万立方メートルが蒸発,残りの7千4百万立方メートルが河川を伝って流出する。その間地下水として参透して行くのが2千7百4十4万立方メートルと見込まれ,逆に地下水より汲み上げるのが3千6十6万立方メートルと見込まれている。そうすれば年間地下水汲上げが滲透を上廻っているのが3百万立方メートルである」。

 勿論降雨の多い年,少ない年,降雨量も一時に多雨の時と同じ量でも分散して降る年によって同様に論ずることが出来ない事は勿論である。 壱岐の水で特色のあるのは地下水のボーリング汲上げであろう。ボーリングが8千本で,他に中小溜池2百カ所,河川井堰等70カ所で2千4百ヘクタールの水田,四万二千人の生活用水,殊に年30万と称される観光客の飲料水,雑用水,1万2千頭の牛を中心とする家畜の飲料水に利用されている。ボーリングによる井戸密度は,1平方キロ当り21本で,九州の平均0.6本に比し極めて高い。壱岐は面積に於て,九州の0.3%に過ぎないが,井戸密度からいえば,11%を占めている。但し取水量は50立方メートル/日以下のものが多いので,小規模の井戸が密集しているわけである。従って,汲上げは地下水をまんべんなく汲上げているといって過言でない。

一,地盤沈下 地表の強い圧力の為、地表陥没、地割れ,地辷り等の現象が発生する。壱岐は地盤沈下は起し難い地層といわれるが,沖積層の中には地盤沈下を起す可能性が,含まれているといわれる。

二、取水量の滅少 密集した井戸は,地下水の汲上げが相互に影響して、取水能力が低下して来る。既に在る地下取水の近くは,更に深く掘る必要が発生する。地下水井戸は相互に奪い合いとなり、更に深く大型化しなければならなくなる。

三、塩水侵入海岸近くでは塩分が混入し、飲料水としての許容量200ppmを超すことになる。一度浸入した塩分は、除去が困難で不可能とさえいわれる。壱岐の水の需用は益々増加しつゝある。召和55年度、飲料水は一人一日180リットルであるが,近い将来360リットルと推測されている。現在年間必要量270万トンが540万トンになるわけである。270万トン中地下水250万トンであるので,ダム等の供給はあっても、地下水による依存は400万トンを下るまい。又農業用水も現在年間必要量2,410万トンが、土地改良による排水の円滑と、畑地潅漑の増加により、更に千万トンの増加が見込まれるので,水資源の確保は喫緊の問題といわなければならない。

 地下水は湖沼や河川水と違って,直接目に触れることが出来ない。従って神秘化され,その破壊的な危険性を内包しているにも拘らず,余り関心が持たれていないのではないかと思われる。然し之が対応については、真剣に取組むべき時期に来ている。地下水を汲上げても,それが汲上げに応じ補填されていれば問題は少ない。
然し水収支の試算のように,汲上げは滲透を上廻っていると見られている。之による公害として,次のことが挙げられている。