情報源:産経新聞 日本人の源流 神話を訪ねて 古事記編纂1300年 @ 仁徳天皇 かまどの煙 応神天皇の皇子として生まれたオホサザキノミコトは、父・応神の遺言に従って弟のウヂノワキイラツコに皇位を譲ろうとしたが、固辞された。兄弟で譲り合って長い間決まらなかったが、ウヂノワキが亡くなったため、オホサザキが16代仁徳天皇として即位。難波の高津宮(たかつのみや)で天下を治め、茨田堤(まんたのつつみ)や難波の堀江(運河)、墨江(すみのえ)の津(港)を整備するなど治世に尽くした。 ある時、天皇が高い山から国の様子を眺めると、民家から炊煙が上がっていなかった。「民はみな貧しく、3年間、調(税)と労役をすべて免除せよ」その命が行われている3年間、収入のない宮廷は、宮殿が破損して雨漏りもひどくなったが、修理せず、屋根から漏る雨を器で受けるほどだった。その後、炊煙が満ちて国民は豊かになり、天皇は「聖(ひじり)の帝」とたたえられた。 民を重んじた「聖帝」 国内最大の前方後円墳、大山(だいせん)民古墳一(堺市、全長486m)に葬られたと伝えられる仁徳天皇。教科書でおなじみの陵に眠る天皇を古事記は、民の生活を何よりも重んじた「聖帝」と称賛する。古墳の巨大さは天皇の徳の高さをも物語る。 よ 〈天皇、高山に登りて四方(よも)の国を見て詔(の)りたまはく、「国中に煙発(けぶりた)たず。国皆貧窮(まず)し。今より三年にいたるまで、悉(ことごとく)に入民の課役 を除(ゆる)せ」とのりたまひき〉 炊煙を見て庶民の暮らし に心を砕いた「国見」は、仁徳天皇の政治姿勢を示す有名なエピソードだ。神々による国生みから書き起こされた古事記は、中巻(なかつまき)で初代神武天皇の即位やヤマトタケルノミコトの国内平定などを描き、下巻(しもつまき)で仁徳天皇は巻頭で、仁徳天皇を通して君主としての「道」を説く。 〈大殿(宮殿)破れ壊れて、悉に雨漏れども、かつて修理(つくろ)ひたまはず〉天皇は民の税を免除しただけでなく、自らも質素倹約に励んだ。「宮殿が雨漏りしても修理せず、自らを厳しく律することは政治家のかがみ」と話すのは、かつて政治改革を唱えて新党さきがけを立ち上げ、官房長官として政府中枢に身を置いた武村正義氏だ。「炊煙を見て民の苦しさを知るだけでは、まだ政治の第一歩。それにとどまらず、自らを律したことで民の信頼を高めた。これこそが民主主義の原点です」 〈茨田堤また茨田三宅(みやけ)を作り、丸邇(わにの)池、依網(よさみの)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通(かよ)はし、墨江の津を定めたまひき〉治水や灌漑(かんがい)、港湾整備に尽力したことも、古事記は強調する。天皇の「難波の高津宮」は、現在の大阪城(大阪市中央区)南側の上町台地の高台とされる。古代の大阪平野には「河内湖」という巨大な湖が広がり、上町台地はその西岸を南北に突き出した半島。 難波の堀江は台地の北端部を掘削した運河で、墨江の津は台地南西側に整備した港だった。高津宮があったとされる大阪城の南側では、5世紀代の大規模倉庫群跡が発掘調査で見つかり、宮を中心に倉庫群、運河、港が集中する海運の要衝だったことが浮かび上がった。 こうした大規模工事を可能にしたのは、「秦人(はだひと)を役(えだ)ち」などと古事記が書くように、先進技術を持ってやってきた渡来人だった。「応神や仁徳天皇を含む時代には、朝鮮半島との交流が一気に活発化した」 大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館の白石太一郎館長はそう話す。4世紀後半以降に朝鮮半島は動乱期を迎え、高句麗や新羅と対立した百済が倭に援助を求めるなど、東アジア情勢が緊迫化した。 それに伴って中国や朝鮮半島から先進技術や文化、学問が一気に日本に入ってきたのだ。「まさに古代の文明開化。港湾などの整備も進んだ」と白石氏。「古事記の下巻が仁徳天皇から始まるのは、古代の人たちが新時代の到来と感じたからだろう」と、古事記編纂の意図を読み解く。 国見や治水など「聖帝」としての仁徳天皇のエピソードは、古代中国の聖天子と伝えられる尭(ぎょう)や舜(しゆん)、萬(う)王がモデルとされる。萬王は税を免除し、自らも宮殿増築を控え、黄河の治水に尽力した。「仁徳天皇の政治は、まさに萬王に通じる」と武村氏は話す。 中国の聖帝像を重ね合わせた物語は、天皇統治の正統性とともに、民を思い、百年の計に基づく国造りをする政治の根本精神を説いている。 ◇ 連載では古事記・下巻を扱い、16代仁徳以降の天皇の政治、人間像を追う。 A雄略天皇 兄の安康天皇がマヨワノミコに殺されたことを知ったオオハツセノミコトは、兄のクロヒコノミコ、シロヒコノミコに復讐を相談する。しかし、煮え切らない態度に怒り、剣で刺し、生き埋めにして2人を殺した。 マヨワは、大臣であるツブラオミの邸に逃げ込んでいた。オオハツセは邸を包囲して攻め、ツブラとマヨワを自殺に追い込む。オオハツセはさらに、17代履中天皇の皇子で皇位継承のライバルだったイチノヘノオシハノミコを狩猟に誘って射殺。仁徳天皇の系譜を受け継ぐ唯一の存在になって、長谷の朝倉宮(奈良県桜井市) で21代雄略天皇として即位した。 雄略の治世は、皇后となるワカクサカベノミコに求婚するため、日下(くさか)(大阪府東大阪市)に向かう山上から国内を遠望し、宮殿に似た家に怒って焼こうとするなど、専制的だった。 滅びの美学と専制時代 雄略天皇の物語は、古事記下巻の終盤を飾る叙事詩である。〈射出(いいだ)す矢、葦の如く来散(きち)りき〉ツブラオミ(都夫良意美、日本書紀では葛城円大臣)の家を囲んで攻めるオハツセノミコトと、抵抗するツブラ。激しい戦いぶりを古事記は、密集するアシの穂のように矢が乱れ飛んだ、と表現している。「この記述は、史実が基になっていると考えて間違いないでしょう」 奈良・御所市教委の藤田和尊文化財課長はそう話す。ツブラは5世紀ごろ、天皇家と対等な力を持った豪族、葛城氏の首長で、戦いの舞台は御所市だったという。葛城氏が支配した葛城、金剛山の東麓で発掘調査が進み、彼らの拠点が御所市の名柄遺跡付近だったことが明確になってきた上での推論だ。 「山麓に武器やガラス製品を生産した工場などが並ぴ立っていたと推定できるが5世紀後半には完全に衰退する。それがまさに雄略天皇の時代なのです」 戦闘の様子を、古事記はさらに詳しく描く。矛を杖(つえ)にして邸(やしき)に入ってきたオオハツセを、ツブラは身をかがめて拝礼して迎え、こう言った。「私が力を尽くしても勝てるはずはありますまい。しかし、自分を頼んで卑しいわが家に入ってこられたマヨワノミコを、死んでも見捨てられません」ツブラは武器を持って再び邸に戻り、勝ち目のない戦闘を続ける。そして…。 「僕(やつかれ)は、手を悉(ことごとく)に傷(お)ひつ。矢も亦(また)、尽きぬ。今は 戦ふこと得ず。如何(いか)に」 (ツブラ) 「然(しか)らば、更に為すべきこと無し。今は吾(あれ)を殺せ」 (マヨワ) 満身創庚のツブラはマヨワを刺し殺し、自らの首を切って死ぬ。古事記はそう記す。 「現実的に考えれば、邸に火をつけて円大臣らを焼き殺したという日本書紀の記述が真相に近いはず」そう話すのは立正大の三浦佑之(すけゆき)教授(古代・伝承文学)だ。「打算のない死を遂げる男を描くことで、レクイエムとして物語を紡ぐ。滅びの美学とも呼べる伝承にこそ、古事記の本質があるように思える」 ◆ 雄略天皇に関する記述はその後も、横暴さを印象づけるものが目立つ。象徴的なのが「国見」の場面だ。「其(そ)の、堅魚(かつお)を上げて作れる舎(や)は、誰(た)が家ぞ」 堅魚とは、屋根の上に装飾用に並べた堅魚木のことで、当時は宮殿に用いられていたと考えられる。 「志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)(大阪府柏原市あたりの豪族)が家ぞ」(従者)「奴(やつ)や、己が家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造れり」(天皇) 雄略天皇は、在地豪族が天皇の御殿に似た邸を持っていることに怒る。同じ国見でも、炊煙の立たないのを見て税を免除した仁徳天皇とは対照的だ。 「(記述は)豪族の群雄割拠の時代から天皇専制政治の時代に変わる情勢を暗示している」と、京都教育大の和田萃(あつむ)名誉教授は指摘する。雄略朝を天皇専制の画期と示す資料は多い。中国の「宋書」は、.雄略天皇とされる倭王・武が、自ら屋根の上に装、武装して諸国を征服したことを宋の順帝に伝えたと記す。 万葉集の第一首が雄略天皇の歌で始まることも、雄略期を新時代と認識した当時の空気を示唆する。旅 の途上だった雄略天皇は、許しを請う大県主から献上された犬をワカクサカベに贈って求婚する。 「暴虐なまでの荒々しさと、恋多き側面を併せ持つ男が日本古来の英雄像。雄略天皇はその代表として語られています」 |