TheIkinipp。第4172号 平成16年(2004年)6月1日&7日)(4)
敵味方鎮魂・地球平和祈願 壱岐国ルネッサンス始末記(1) 壱岐国から伊勢国・伊賀国へと敵味方鎮魂 全国一の宮巡拝会世話人代表 入 江 孝一郎 古代壱岐国の地に新しく壱岐市が誕生したのを祝い蔵元が合同で焼酎「壱岐市」を発売したのを壱岐国ルネッサソスのポスターを書いてくれた長岡秀星さんの同窓の竹富鉄一さんから贈られた。壱岐とかかわったのは、壱岐国一の宮天手長男神社が宮司不在となったのを知り、諸国一の宮巡拝者が困ると、壱岐で知り合った有馬黎子さんに働きかけたのが始まりである。有馬さんから占部英幸さんと広がり、天手長男神社氏子も立上がることが知らされた。 元冠の役で壊滅し、江戸時代初期に平戸藩主の命をうけた橘三喜が壱岐島の廷喜式内社24社を調査し、藩主松浦鎮信が一の宮の社殿を寄進した。明治になりさびれ、島の人にも忘れられた。 壱岐国一の宮が元気になるのは、元冠の役の鎮魂からと提案し、社殿も修築することとなった。それに壱岐国分寺に伝え、渡辺義道和尚に伝えられ、「僧侶として意義あること」と除夜の鐘の音を携帯電話で聞き、和尚から力強い声を聞いた。壱岐国分寺は臨済宗の寺で元冠の役すぐ弘安5年(1286)北条時宗は「敵味方供養」のため鎌倉円覚寺を建立したことを改めて認識した。 神仏がともに行う意義の大きさを思った。そのうち観光協会もというので、「壱岐国ルネッサソス」として『魏志倭人伝』の邪馬台国は壱岐から始まるといわれるのも加えることになった。721年の歳月を経て、玄海灘の藻屑となった霊魂がよみがえったのである。 この計画で初めて壱岐に訪れると壱岐国分寺渡辺和尚は、除夜の鐘のとき聞いた元気がなく、なにか空気は変わったようである。壱岐国ルネッサソス実行委員会役員に聞くと、やるとい う意向があったのでモソゴル国へ僧侶の招聴に行った。 そしてモンゴル国最高の寺院ハソバラマ管長猊下、モソゴル密教・日本の神仏あげて元冠の役敵味方鎮魂地球平和祈願を行い、同時刻に諸国一の宮において同様の鎮魂地球平和祈願をした。これにモソゴル駐日大使、前大使も参列して世界に発信した。 モソゴル国民は元冠の役のことを知らないので、今回モソゴルテレビが同行し、ハソバラマ管長猊下が戦跡をめぐつて祈る姿をモソゴル国内で放映したことが伝えられた。壱岐国ルネッサソスは、企てから推進にいたるまで、最終的に全国一の宮巡拝会が実行することになった。有馬さんから壱岐の人と食事の機会をというので、壱岐最後の日に、宿泊のホテルでパーティを計画したら、壱岐国ルネッサソス実行委員会が仕切ったので普通のパーテイーになった。 ハンマラマ管長猊下一行は、筑前・山城・大和国一の宮、仁和寺、高野山と清浄なる地を拝し、千秋樂の両国国技館でモンゴル出身の朝青龍横綱の優勝戦を観戦、その夜 は東京丸の内のパレスホテルでお別れパーテイーを開き、翌朝、721年前の敵味方鎮魂 供養念って鎌倉円覚寺舎利殿の中で祈り、足立大進管長と面談してモンゴルへ帰った。 壱岐国ルネッサンスが、元寇の役で死んだままになっていた霊魂への「敵味方鎮魂地球平和祈願」となった。記紀に記されている伝統的神道は、味方より敵を手厚く祀ることであり、それを実行したことは画期的なことであった。壱岐から3月29日には、伊勢国水屋神社で「北畠具教軍・織田信長軍敵味方鎮魂地球平和祈願」として実現した。さらに伊賀国一の宮敢国神社で「天正伊賀の乱敵味方鎮魂地球平和祈願とつづくことになった。壱岐国で一つの灯火が灯されて、つぎつぎと広がろうとしている。壱岐国ルネッサソスは目に見えない力に動かされている。風の便りで壱岐国分寺渡辺和尚が亡くなられたことを聞いた。狭間に入り悩まれたことであろう。ご冥福を祈る。(つづく) 壱岐国ルネッサンス始末記(2) 壱岐国から伊勢国・伊賀国へと敵味方鎮魂 全国一の宮巡拝会世話人代表 入 江 孝一郎 壱岐国一の宮において元冠の役敵味方鎮魂を実施することは、721年前にそこで亡くなった人々の霊魂が救い求めての発信と念い、これを天命を感じて取組んだ。お金のことにかかわらずに行動をしたのである。結果は「巡拝会会報第20号」で収支決算報告をした通りである。草の根の全国の会員・壱岐の人々の浄財によって実施できた。 一の宮を巡拝する人々の集まりが念いもよらぬ「敵味方鎮魂地球平和祈願」を国際的規模で実現できたことである。天下武布を宣言 し、統一を目指した織田信長は、中世から近世に歴史の舞台をかえるため多くの虐殺をした。その怨念をはらす「敵味方鎮魂地球平和祈願」と全国一の宮巡拝会にさらに課せられた。 宿年の玄海灘に漂う元冠の役の霊魂が鎮魂された。壱岐国ルネッサソスは、その扉を開いたのである。壱岐国一の宮では、毎年この日に鎮魂を行い、巡拝会からも鎮魂祈願をする。目に見えない世界が如何に大事なことであるか、伊勢国・伊賀国へと自然と広がっていることをみればわかる。 壱岐市誕生で壱岐国が復活し、この目に見えない世界のプロセスを理解するとき、本当の壱岐国ルネッサソスの果実が実るのである。 壱岐は漁業と農業の収入と観光収入が同じで、島の経済を支えているという。観光の占める割合は大きい。しかし、観光は経済だけで計れるものではない。経済優先にしてきたツケが全国の観光地にあらわれている。 「敵味方鎮魂地球平和祈願」を観光イベソトと考えたところにも壱岐の人の間違いがあった。観光は光を観る、人の温かさで、人をもてなすことが基本である。これを助長してくれるのが自然であり、そこの歴史・民俗習慣である。 壱岐国ルネッサソスで『邪馬台国五文字の謎』(角田彰男著)を記念出版したが、壱岐の人はどんな評価してくれたか解らない。しかし、朝日新開などに書評が載り注目されている。(注:すでに蔵版されている) また、歴史の深さは延喜式円社が壱岐国には24社も現存しているのも誇りに念わなければならない。、感謝の気持をもつことである?訪れてくれる人に感謝の念いが観光の心である。目に見えない世界を感じることが、観光の温もりの自然な醸成で、壱岐国ルネッサソスほ教訓であった。 (おわり) |