小さな親切、大きなお世話            作家 曽野綾子

当事者でない者の謝罪

戦後、70年目の節目の年に当たって、総理はこの夏「談話」を発表されるという。それを聞いたとき私は、何とまあ大変な仕事をなさらなければならないのだろう、と感じたものであった。私は文章を書くことだけは60年以上やってきたので、少しは自由に表現できると思っているが、それでも一国の立場を代表する談話などというものを書ける人がいるとは思われない。

いや総理の近辺には、東大法学部出の秀才がいて、世の中にできないことはないと思っているのだろうから、その方が下書きもなさるのだろうが、文章の怖さは決して万人には受け入れられないという運命を持つことだと知悉(ちしつ)した上でゃるのだろうか。

あらゆる人が納得するようなことだけを書けば、こんな八方美人風の可もなく不可もない文章など、通用すると思うのか、とそっぽを向く人が出る。総理個人の思いが強力に打ち出されていれば、それに同感する人もいるだろうが、必ずそれを種に攻撃する人も出る。

中国や韓国は、先の戦争のことを謝り続けろ、と言うらしい。日本人は謝るというと、言葉で表現し、頭を下けたり土下座したりして、相手に優越感を味わってもらえぱ済むことのように思っている面があるが、通常、謝罪するということは深い罪の自覚とともにお金か領土で弁償することだから、簡単に謝っておいて済むことではない。

それに、とこのごろ私はよく考える。謝罪ということは、直接の被害を受けた人と、与えた人とが、現在そこに当事者としている場合にしか、なし得ないことではないだろうか。

仮に私個人に、70年も前に起きたことを今でも言い立てる人がいたら、そういう性格の人とは付き合いたくないと思うに違いない。

70年前、顔を見たこもない私の曽祖父が犯した悪事を、今普通の市民として生きている私に責められても、私としは謝りようがない。そもそも過去の認識という行為は、すばらしいように見えるが、あくまで後ろ向きの姿勢なのだ。

それより現在現実にその人が、どれだけ誠実な市民として暮らし周囲の人にも貢献しているかが問題であろうし、過去の認識へのそれが答えなのだ。

執後の日本人は、国中焦土になった中から復興し、誠実に働いて優良な製品を作り、人道にも
とる行為もせずに生きてきた。それが過去の戦争に対する反省であり、償いでもあろう。

ユダヤ人は、謝罪という点では私たちよりもっとはっきりした認識をしているという。謝罪は、直接の加害者と被害者の間でしか成立しない。あるドイツ人が、一人のユダヤ人に「戦争中ナチスに加わった同胞の罪を赦してください」と言った。するとユダヤ人は答えた。

「私はあなたを裁くことも赦すこともできません」という話を昔読んだことがある。もし当事者でない者が謝ることができるなら、私たちは仮に殺人を犯しても、容易に代理人を立てて、謝罪をさせておけば済むようになるからであろう。(そのあやこ)
情報源=産経新聞H27.4.24