雪州会とは「先輩方の雪州会への想い(創刊号・順不動)から・・・。 ふるさとへの想いはいつの世も同じだなあという発見を、あらためていたしました。
(20年前=1983年・・社会で大活躍中の中堅ヤングの意見です。ホームページ管理室)
頼れる会となるように。 野口富雄
”東京ん雪州会ち、どげな会じゃろけえ”こげんこつば云われんごてえ、今回会報の創刊、みんなが待ち望んでいたことで、誠に慶ばしく、と共に発行に当たられました会長、幹事長方のご努力に対し、深くお礼を申し上げます。
渡良の芋喰いがお世話になったのは昭和九年四月でしたが、この間、会合の想い出は後楽園のかんとく亭、明治記念館、昨年の市ヶ谷会館位で、十四年四月、渡支する迄は勤めが海軍関係の為、水交社での深水中将、木寺、前田大佐、長岡元さん方との会合が併せて記憶に残っています。雪州会の歴史も戦前、大東亜戦争中、戦後の三段階に分かれるでしょうが、昨今は会員も増え、年齢層もヤングがウエイトを占めている様です。
今後の会の活動もヤングを中心として、美しい郷土、壱岐との繋がりを深め、さらに親しみある、頼れる会となる様、みんなで協力したいものです。楽しい創刊号を期待し、併せて雪州会のますますの発展を祈念いたします。
(府中医王病院勤務 雪州会幹事)
私の考 竹下春雄
雪「雪州会」の由来を本で読み、ようやく「雪州会」が”壱岐人の集い”であることを知りその時迄の無知を恥しみつつも壱州人の集い”を見つけた喜びを胸に初めて総会に参加させていただきました。
参加した私は、長い歴史と立派な活動をまざまざと見せ付けられ、ただ唯々畏敬の念を持つばかりでした。私の如き若い者が軽率に意見を申し述べることは差し控えなければなりませんが、組織が発展して、会員が増大するにしたがって、常時老若混合式の運営方法には限界がないものでしょうか。勿論「年齢が異なるのなら袂をわかってしまえ」という考え方は、あまりにも性急な考えでありますので、組織の一本化はそのままで、組織の内部に例えれば「青年部」の設置などはいかがでしょうか。
若い者同士定期的に気軽に会合できる場もよろしいかと存じます。今後の一運営方法として、幹事諸先生方の御目にとまりましたらこの上ない幸いでございます。出すぎた事ばかり申し上げましたが、若輩の邪推愚見として何卒お許しくださいませ。最後に、雪州会の年輪に益々研きがかかりますよう願ってやみません。
(ライト印刷(株)勤務)
近代文明のオアシスに 斉藤 實
荒廃した近代精神文明のなかにあって、郷党が相集い、相語らうのは一服の清涼剤であり、力の源泉でもあります。長い伝統をもつ雪州会はそれなりに存在意義があり、諸先輩の哀歓を結集して今日にいたったように思います。この雪州会を郷党の親睦機関として、さちに盛り立て、発展させるため、後に続く人たちが献身的に、精力的に活動されておりますのは、極めて、感動的であリます。
その一環として、ここに雪州会だよりが発刊されました。日ごろ郷党相互のコミニケーションを図るためから、その発刊を心より喜んでいます。会報が、郷党・郷土の話題がいっぱい詰まった「ひろば」として、心の乾きをいやすオアシスとして、今後、とも発刊、発展することを願うものてす。真鍋会長、後藤幹事長のもとで、若い人達の声も人れ、会の財政的な組織、新名簿の作製、会報の発刊など、会の基盤づくリが進んできたこと同慶にたえません。
"在京郷党よ、雪州会の旗の下に””幼きころの潮騒に魂のいこい"を求めよ!
日経映画社総務部長 雪州会幹事)
随想 川添邦輔
雪州会も役員各位のご尽力もあり毎年盛大になりつつあるのは御同慶至極です。かつて私は福岡在勤中、在福壱岐人会の創設に当たった事があリ、昭和三十年頃から転任迄数年間お世話をしたことがありました。当時は、重井春朝氏〔材木商自営)を会長に、会員数も数十名を数えましたが、其後如何かと思っておった所、継続して益々盛大、活発に活動していられる由で、一粒の麦がまだ繁っている事に喜ぴを感じました。
郷土意識というものは、なつかしいもので、砂漠の様な殖民地的東京で生活していると年一回の集りか楽しくなります。若年活気の時はこんな回想趣味的なものは出ませんが、人間は一人のみで生きて行けるものではないし、何事を為すにしても交りは広い程よいと思います。そういう意味で若い人も関心をもち進んで参加される様、又、そういう雪州会であってほしいと思います。
(朝日火災海上保険(株)監査役)
壱岐の自然を守りたい 小西誠
この夏数年ぷりで壱岐へ帰った。飛行機に乗ったのは、生まれて初めての経験であるが、東京〜壱岐が約三時間。文字通り一つ飛びである。毎朝の通勤に一時間を要することと考え合わせると壱岐も大変な近さである。それまでは、あんな大きな鉄の塊みたいな物が空を飛ぷこと自体に不安があったし、「飛行機は空中分解した時つかまるところがない」と言った人の言葉になる程と首肯する位の気持だった。
ところが、塔乗してみるとなかなか便利で快適である。しかし、飛行機の旅は何か一つ物足りない感じである。汽車の旅で味わうあのはるばる旅をしてきたという実感や、暮れなづむ車窓をよぎる風景にふっと感じるちょっぴり寂しいような感傷・・旅情とでも言うのであろうか・・がない。
文明が発達して便利になることは結構である。しかし、我々はその便利さと引き換えに何かもっと大切なものを失いつつあるのではないかと言う気がしてならない。山の緑がコンクリートで塗りつぷされたり、水の碧さが工場排水で汚されたりは真平御免である。せめて壱岐のあの美しい自然と素朴な人情丈は、何とも引き換えにしたくないものである。
昭和四八年十月八日記
(日本大学本部勤務 雪州会幹事)
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